・・・レポート続き④・・・
「純粋な願い」は、世界を動かす。
そんな、ミラクルな瞬間を目の当たりにしたバックポケット。
《振り返りの時間》に みんなが
思い思いにシェアしてくれた言葉には、
この2日間のキャンプで感じたさまざまなこと、
受け取ったこと、自覚したこと、変化したことetc...が
それぞれにあふれていました。
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・最初は怖くて「できない!」って思いながら、一人で走って向かっている感じがあったけど、2度目の作戦会議をした後、できるとかできないじゃなくて「やる!」ってなった瞬間があって、、、そこからはどこか「一人じゃない」と感じられた。
・一回目のトライでは恐怖があって「走る」なんて全然できない感覚だったけど、
2度目の練習中に少し感覚がわかってきて、走る感覚がわかったらだんだん楽しくなってきて、
走ってるうちに恐怖心が消えて「楽しい!」になって、、、体と心が繋がった感覚があった。
2トライ目は失敗したけど、なんか自分の中では満足で、開放感があった。
恐怖に縛られてたところからの開放感というか。。。
自分の人生を振り返ると、しょっちゅう恐怖に負けてたかな?と思うんだけど、
「楽しい!」という感覚が勝ったらいけるんやなとわかった。
この感覚をこれからも覚えていたい。
・いつだってついつい「大丈夫」って言ってしまう自分がいたことに気づけたことは大きい。
無意識的に蓋してきた不安を、今回みんなに度々確認してもらって
「本当はどう感じているのか?」を確認できるようになったことが安心につながった。
「大丈夫じゃないと思ってもいい」という信頼が生まれていった感じ。
頑張れば大丈夫なことっていっぱいあるけど、頑張ってしまっている自分にも気づいてあげることって大事だと思った。
・はっきりとした意図をもって何かをすることじゃなくて
「何かしら気になって」ふとやってみたり言ってみたりすることって、けっこう大事だなあと思った。
図られたものじゃない流れで、こんだけのことって起きるんや!!という信頼を感じた。
・自分の中で「悔しい」という気持ちがあっても、今までだったら出さなかった。
自分から率先して人を集めることもなかったし、今までだったら「もうええやん」って無理やり納得させてたと思う。
このパックやったら言えるなって思って、、、そう思った瞬間に勝手に言葉が出てた。
「考える」より先に、言葉や行動が出てたと思う。
・エッジって、越えようとして越えるというよりも「あっ!超えちゃってた?」みたいなことの方がリアルだなと感じた。
本当の気持ちを言った時も言わなかった時も、どちらを選んでも「これで良かったんかな」と反省したり、後悔したり、あれこれ心配したりしている自分に何度も出会った2日間。
そんな心配や反省ばかりしていると、なかなか無邪気にはなれないものだけど、そんな時に
仲間がそのまま、ありのままのエネルギーを表現してくれる姿にふれて嬉しくなったり感動したりして
「純粋にありのままを表現することってこんなに素晴らしいんだ!」と、改めて信頼することができた気がする。もっと無邪気でいたい。
・実際にアクティビティをやってる時よりも、話し合いの中で自分の中の何かが動くというシーンがたくさんあった。
自分の意見を言うということよりも、話し合いの中で自分が何を言って人がどう反応するか、そんな流れを見て意見を出すという頭が自分にはあるんだなと。
みんながみんな、同じ方向を向いているように見えてしまう時って、ちょっと怖いなと思うんです。「本当に?」っていう見方が自分の中には常にある。
集中しすぎたら他が見えなくなるということが起きるから「集中しない」と決めることも大事かなと感じていて、自分がそういう意識になっているんだなということに気づいた。
社会に出ると「リーダーを目指せ」ってなりがちだし、そういう人生に憧れもあるけど、それだけじゃないのも面白いというか。
・自分のことを受け入れたり、受け入れてもらったりするこういうシェアの時間って
「課題達成」志向のプロジェクトの中では無意味な時間やけど、行動は実際バラバラでも、なんか一緒にいるなという感覚が生まれたり、同じにならなくてもいいという安心感が生まれるんだろうね。
答えを出さなくていいとか、次の行動に結びつける何かのアクションにしていくことが求められない時間って、社会の中ではなかなか作れないものかもしれないけど。
・日常の中ではこういう場面は少ないかもしれないし、思いを全部を言い切れないうちに次に行ってしまうことはすごくたくさんあると思うんだけど、
自分の中に「飲み込んでしまった何か」があった時に、聞いてくれなかった人のせいにしたり、残念に思うんじゃなくて、自分で自分に丁寧に聞いてあげることもできるなと思った。
そして、表現したくなったら表現すればいいんだと。
実は周りも、聞く耳を持ってくれていないのではなくて、ただどうしたらいいのかわからないだけのことかもしれないし、自分自身が何をどう伝えたいのかわかっていないっていうこともあるから、わかりあうことを諦めたり、心を閉ざしたりする前に、まずは自分が自分に寄り添うことから始めたらいいし、自分でやるのが難しかったら、ただ聞いてもらうっていうヘルプを求めるのもいいかも。
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こうして、
個性際立つアクティビティ以上に
《ふりかえりの時間》を
丁寧に扱ってきたウルフキャンプですが、
みんな、初日からこんなふうに《微細な感覚》を
上手に拾いながらのシェアができていたかというと、、、
もちろん、そうではなかったと思います。
一歩一歩、少しずつ、<そのままの感覚>を
言葉にすることができるようになっていった背景には、
松木さんが 折々にナビゲートしてくださった
「フラート」をとらえる
という経験の積み重ねが あったからではないかと思います。
フラートは
『なんか知らんけど注意をひくもの』のこと。
なんかわからないけど このシーンがやたら気になる・・とか、
ふと浮かんだ「あの人の顔」や、「風景」や、「言葉」やら、、、
なんでそのシーンが出てきたのか わからないくらいがの方がいい。
簡単に「意味づけ」できないくらいのことのほうがいいかもしれない。
by 松木 正
このフラートは、
創造の力そのものを 色濃く表しているといいます。
自分が成長するために「印象的だったシーン」を思い浮かべようとすると
ついつい思考的になりがちですが、
そうした《思考的な回想》からは
あまり変化は起こらないのだ と言われる松木さん。
まるで夢のように、
なんだかわからないけれど浮かぶ・・
というシーンを 折々にとらえてゆく。
体に現れる痛みや、病気でもそう。
そこを大事に触れていくと、その中に
「何かになろうとしているエッセンス」がある、と。
それは、
みんながエッジを超えていくために とても大事な力なのだと。
「その、フラートとして捉えたシーンをフィードバックして
その時の<感覚>に もう一度入っていった時に
どんな【エネルギー感】があるかを できるだけリアルに感じて欲しい。」
《フラートとドリーミングエッセンスを捉える》のお話 by松木 正
http://ameblo.jp/lilianoano/entry-12288568850.html
そんなふうに促され、
キャンプの中では 何度も何度も、
その感覚を 絵にしたり、からだで表現してみたり、言葉にしたりして
ただそこにある<エネルギー感> と
ダンスするような感覚を たっぷりと味わいました。
フラートに目を向けながら
みんなが出会ったのは、、、
・失敗や評価を恐れて 動けなくなっていた自分や、
・仲間をサポートしようと追いかけながら 急に立ち止まってしまった自分、
・誰かを必要と感じながらも、同時に
自分からつながりを立ち切りたくなる衝動や、
・絵を描くのに与えられた12色の色鉛筆を握った時、黒しか選べなかった自分、
・青色を多用した自分の絵を振り返って「不安だったのかな?」という気づき、
・本当は「ガツガツ独走したい」自分を抑えて
「チームプレイやし・・」とブレーキをかけていた自分、
・ふと舞い降りた一枚の桜の花びらが、また風でどこかへ飛んで行った時、
いつもだったら感じる《喪失感》から解放されていたことへの発見・・・etc etc...
その時、そのままのエネルギー感を受け入れ、味わい、仲間と共有し、
自分と、仲間と、深く知り合うこと。
そのままの自分を、そのままの相手を 受け止めあうこと。
何かを【解決】しようとして 具体的な手を下さなくても、
ただそのままを受け止めあってゆく体験の先に・・・
『気がつけば 越えられなかったエッジを超えていた!!』
そんな、【進化の種】が いくつもの実りを結んだ
素晴らしい2日間でした。
マザーアースエデュケーションHP:
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