「素」「ありのまま」の自分でいると職場では少し無作法な気がします。
「素」「ありのまま」を知っているのは、幼馴染や家族かもしれません。
幼馴染や家族には、私の中の無数にいる自分の中から、その時々に出したい自分が示せる相手なのかもしれません。
大嫌いな人には「素」「ありのまま」の自分は見せないか、普段とは全く違う自分を「素」「ありのまま」だと出しているのかもかもしれません。
私はこれからも心の中にしまってある無数の自分、「素の」「ありのまま」の自分を、そして誰にも見せることのない「素」「ありのまま」の自分も併せて抱えて生きていくでしょう。
そんな私が人間関係で重きを置くのは「理解」よりも「距離感」です。その時々の適切な「距離感」。
近づきすぎると見えなくなるものがあります。有名な絵画でも、近くで覗きこめば、線と絵の具の塊しか見えないのと同じ様に。
また「知ってる」気が、相手を雑に扱ってしまう可能性も含んでいると思っています。
「ありのまま」を知りたがるより、お互いの居心地の良い「距離感」を知る方が大切だと思う様になりました。
知らないままでいるからこそ思いやれる時もあります。詮索しない相手だからこそ、伸び伸びと振る舞える自分がいたりします。
「全部わかっている」よりも「全部わからなくても平気でいられる」
「説明があるから寄り添っていられる」よりも「説明がなくても心が離れない」ことが、私にとっては大事なのです。
私という人間は常に変わり続けています。感情は時によって流れるし、あの日、あの人とわかりあえたと思っても、次の日には違う関係性に見える事もあります。
確かなものは無いとわかっているからこそ人との関係で必要なのは「距離感🟰少しの余白」なんだと思うのです。
人との付き合いの中で
「ご機嫌そうだね」「ちょっと機嫌悪そうかも」と相手に思われる場面は、誰にでもあると思います。
その時に「何考えてるのかわかんないけど、まぁ一緒に居るのは嫌じゃないよ」と、考えてくれる人間関係の「距離感」が私にとっては重要です。
そういう関係が健全だと思っているのです。