前回の投稿に関連するのですが、自分の感情を出すことを躊躇う私は「素の自分」「ありのままの自分」を誰かに受け入れてほしいとか、さらけ出して楽になりたいとか、そういうふうに思ったことがありません。
そもそも——私自身が、その「素」や「ありのまま」が何なのか、よくわかっていないのです。
私にとって自分というものは曖昧で不確かなのです。
まるで光の加減や湿度で揺れる水面のようです。そのときどきで表情を変えてしまう…
そんな自分自身を、ひとつの言葉(観念)で言い表せる気がしません。
私は人と争うのが苦手です。言い合いも好きじゃないです。もし争いで誰かを傷つけたとしたら後悔というか、自責の念が残ると思うのです。だから、なるべく穏やかに波を立てずにいようとします。
けれど不思議なことに、ある種の人に対して は、どうしようもなく嫌悪感を抱いてしまい「傷つけてもいい」とさえ思ってしまうような、暗く鋭い感情が、静かにでも確かに、胸の奥でふくらんでいくのを感じる時があります。
ある時には誰かを徹底的に負かしてやりたい、自分の方が優秀だとひけらかしたくなることもあります。まるで子供の喧嘩みたいに。
普段は他人と比べることの無意味さを痛感しているのに、ある瞬間には自分が「他人とは違う(優秀だ)」と示したくなる——そんな自分も確かにいるのです。
結婚前の独身時代には、恋愛は自分の心を乱される面倒なものと考えているにも関わらず、時には気のない相手を振り向かせてみたくなる、まるでゲームのような衝動が湧くこともあったのです。
つまり、こういうことです。
矛盾した自分がそこにはいる。
私の中には例えるなら「表」と「裏」の様なものが存在しているのです。この対照的な二つのベクトルだけでなく、他にも無数のベクトルの私が存在しているのを感じるのです。
だから今でも私は「素の」「ありのままの」自分がわからないのです。
どれか一つを「素の自分」「ありのままの自分」として誰かに差し出すなんて、そんな乱暴な話は無いと思うのです。
私は「誰かにわかってほしい」とは思うと同時にす自分自身でさえはっきりとつかめないようなものを「他人が理解しきれるわけがない」とも思っています。(これも矛盾です…)
私にとって「わかってもらう」ということは、どこかに「固定される」イメージ、あるいは「「狭い箱に閉じ込められる」イメージがあって、「あなたって、こういう人だよね」と言われた瞬間に、自分の中にいる無数の「それ以外の自分達」が一斉に静まり返る気配を感じるのです。
それは一瞬、救われた気持ちがしたのに、なぜか少し寂しい…
言い換えれば「理解されること」にも「わからないままでいてくれること」にも同じ様に安堵してしまう自分がいるのです。(これも矛盾です笑)
続きます。