ここに置いたこの言葉。〜今日も一日、お疲れ様です〜 -6ページ目

ここに置いたこの言葉。〜今日も一日、お疲れ様です〜

熱々の餃子を口に放り込むと焦げた皮がパリッと弾け、中から肉汁が溢れ出す、その瞬間が堪らなく好き。

「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」(B'zの曲 ‧ 1995年

って言ってくれないんです、誰も私に…


なので、もう人生も折り返しなので

「I(アイ)のままで、わがままに 私は私だけを傷つけない」精神で生きようかと思っております。



職場で嫌いな人がいるのですが、どう対応しても、どう見方を変えようとしても「嫌い」にしかならないんですね。


なので最近は「思いっきり嫌えばええやん」と、自分のわがままを許し、この時間だけ「嫌うだけ嫌う」っていう時間帯を作る事にしました。


湯船に浸かっている時とか、夜寝る前とか、電車の待ち時間とかの5分程度の間に


「嫌い過ぎる、無理すぎる」

「嫌な人と同じ空気吸ってる私、偉いやん!」

「これだけ私を嫌いにさせるなんて凄いわ」

と自分の中の「嫌い」を肯定し、そして自分を持ち上げるのです、頭の中で。


先日はこの時間帯を過ぎても頭の中が「嫌い、めっちゃ嫌い」って大騒ぎでした。ずっと「嫌い」って感情に支配されるのは無意味な感じがします。

「嫌い」を頭から追い出す為に、先日投稿した様にASMR 動画を見る時もあります。


「器が小さいんですね」って思われるかもしれません。私は器が小さいのだと自覚しています。



器が小さいと自覚するには、そのエピソードは枚挙にいとまがないのです。


一つの例として

「仲良い人が嫌いな人と楽しそうに話している」を見てしまうのが、しんどい。

「普段私と話している人が嫌いな人と話している」だけで、しんどくて、どよ〜んとする時もたまにあります。


そんな様子を見た後に

•仲が良い人が私に嫌いな人のことを肯定的に話してくる。

•私と普段話す人と嫌いな人との仲良しエピソードを聞いてしまう。


というシュチュエーションが、まあまあの頻度であるのです。そもそも嫌いな人に興味が持てないので、何も気持ちが動きません。社交としての対応に終始します。


それを繰り返すと、好きな人や普段話す人との会話自体も面倒くさくなったりする器の小ささです。



「嫌い」じゃなくて、無関心に気持ちをもっていくという対処法がありますが、私は「嫌い」という自分の感情は否定するつもりは無いです。


「嫌い」があるから「好き」が際立ちます。

他人の「嫌い」という感情も理解出来るかもしれません。「嫌い」は排除せず、受容派です。


こんな私でさえ社会で生きていく上では「嫌い」でも礼節は尽くします。

こういう本音と建前的なジレンマは人生の修行。と言うと大袈裟かもしれませんが

感情が生きていて、理性を働いている状態を体験してるのは人生を味わい深くしている気がしています。