晒すという行為から考える〜『顛末はどうなるのか』『筋は悪くないか』 | 今日のナラティブ

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全国高等学校野球選手権が始まりました。

今、X等のSNSでは某高校野球部のイジメ(暴行事件)が話題です。

野球選手権の開催と同時とも思えるタイミングで被害生徒の保護者からネット上で、加害事実が暴露され、それが拡散されたのです。



SNSの多くの反応は、加害の事実に対しての非難です。


中には、加害者とされる生徒達の実名やテレビで中継された開会式での入場シーンの映像とともに顔を晒している投稿もあります。それが酷い揶揄とともに拡散されているのです。


事件の事実(加害した事実)や監督責任のある高等学校や学校の責任者、高野連の対応が非難されるのは、仕方のない事かと思います。


対して加害した生徒に対する晒しという制裁、非難はどうなのでしょう。


被害者である生徒の保護者は、それを望んでいたのでしょうか。

保護者の声明文では、それを望んではいないとのことでした。


自分の子供にされた被害を訴えるという目的を超えてしまい、事件に関係ない第三者による加害生徒への執拗なヘイトを生んでしまったこの状況をどう感じているのでしょう。

被害生徒の保護者の気持ちがわかる訳ではありませんが、行き過ぎであると感じている可能性はあると思います。



正直に申し上げれば、私はネットに晒すという行為に敏感だったわけではありません。

幼い子供達が卑猥な犯罪に遭った事件や、弱き者に対する理不尽な事件(殺人や残虐な暴力、詐欺)の犯人がネット上で晒され社会的制裁を受けていても、何も疑問を抱かなかったのです。

晒された個人情報を能動的に探すことはしませんでしたが、偶発的に触れたものに関しては『酷い‼️』と憤ることはあっても、晒された情報である事実に関しては特に気に留めることはありませんでした。



しかし今回の件は、その晒された情報に触れるだけで気持ちがざわめくのです。


個人の晒す行為🟰私刑による社会的制裁の意味を考えてしまうのです。


ブログでもそうです。ブログでの対立構造の中で『もう、今はブレーキを踏む状況なのでは』と私は感じていて、けれどブログ上では、火に油を注ぐ様にお互いの正義を背景に晒す行為をしているのを見る事があります。


そんな状況を見ると、私は当事者間、両者にとっての顛末が、ただ後味が悪くなるだけではないのか。

相手の逃げ場を無くす、相手のブログを焼き尽くす事で、何を得る事が出来るのだろうか。と考えてしまいます。



もう私の心は弱いのだと思います。

突っぱねる力という弾力は弱くなっています。たまにしか真で弾け返せない状態になっているのでしょう。


なので他者と正しい、悪いと立場が違う対立が生じそうな時にまず考えます。


自分の主張を示すならば、そのやり方は『筋が良いのか、悪いのか』を。出来れば深く熟考してから、行動に繋げる。


『顛末がどうなるのか』が気にすると、場合によっては静観する、時には自分が一歩は引くという選択肢が出てきます。

これば今の私の処世術です。