毎週楽しみにしていることがある。


それは、週刊文春を買って電車の中で読むこと。


そして、連載「そのノブは心の扉」を読むこと。


書いているのは、劇団ひとり。




いつも電車のなかで読みながらニヤニヤしているので、


きっとなんだあいつはと思われているだろう。


そんな魅力が彼の文章にはある。




いつの連載だったか、こんなことが載っていた。


劇団ひとりがスタッフと食事をしていると


「ひとりさんと一緒に食事していることをつぶやいてもいいですか?」とあるスタッフに言われたという。


その時劇団ひとりは「なんだこのひと」と思ったらしい。


しかし、そのスタッフが携帯をいじり始め、一向につぶやかない様子を見て、


よくよく尋ねると、それは「ツイッター」らしいことがわかる。


それから劇団ひとりはツイッターを始める。



芸能人である彼はネット上で「荒らし」が起こるのを避けるため、匿名でツイッターを始める。


しかし、匿名のためか一向にフォローしてもらえない。


そして最後彼が言うのは、


「街中でリアルにつぶやいた方がよほどフォローしてもらえるのではないか」





この文章を読んだとき、巷にあふれるツイッター本?のいかなるものよりも


的確に、正確にツイッターをとらえていると思った。


リアルにつぶやくこととネット上でつぶやくこと。



最近、大学のゼミで、


発表中の人にその場で意見を直接言うのではなく、


その場でツイッターで意見を書き込むのだという。


特に言いづらい意見などを書き込むらしい。



あとでネット上のつぶやきを確認する発表者は、


「リアルなつぶやき」よりも「ネット上のつぶやき」の方が厳しい意見であることを見、


落ち込む。




うーん。


なんだこのコミュニケーションは。


もはやリアルなコミュニケーションは副次的なものなのだろうか。





劇団ひとりからだいぶ話がそれましたが、


今週の連載(第192回)、「名言」も


電車のなかで笑いをこらえられませんでした。


時間があったら、是非。





前からずっと見たかった映像が、最近見れてとても興奮している。




押井守監修


「東京スキャナー」



http://vimeo.com/1409486



すごい、の一言。


なにがすごいのだろう。


ただの空撮にしか見えないこの15分足らずの映像は、何かがすごい。





六本木ヒルズのオープニングイベントで上映された本作品。


何がすごいのかを言葉で言えたら、映像の意味はないよと日々思う。






ただ、吉見俊哉の以下の言葉はすこしだけ参考になる。


「ここで捉えられている東京は、作品のタイトルが端的に示しているように「デジタル化」されている。


(中略)


ここでの上空からデジタル化されたまなざしは、視界の一部を自由にクリックして拡大すると、


その部分の風景はもちろん、音声や雰囲気までもが迫ってくるように拡大表示してしまうのだ。」


(吉見俊哉,2005,「迷路と鳥瞰」、『東京スタディーズ』紀伊国屋書店)




たしかにそうである。 都市のデジタル化。


これこの作品のが最大にして唯一のテーマである。


都市をデジタルとしてとらえること。




なんか、ここでよくありげな議論は、『マトリックス』的なデジタル都市を挙げ、


ボードリヤール(フランスのお偉いさん)でも参照しときますか、シミュラ~クルが~的な議論だと思う。




そんなのはもう古古なので、


ここでは「iphone都市・東京」とでも名付けようか。




「クリックして拡大する」この操作こそiphone。(ipadでも可)


もう都市はクリックすれば(指を広げれば)拡大し、指を横にずらせば移動する。



macユーザーではないので詳しい操作は分かりませんが、


都市はiphone化している。


たとえば、ストリートビューとか、そもそもグーグルマップとかもそうだろう。


クリックで拡大、カーソルをずらせば移動。





なかなか興味深いテーマである。




そんな妄想をかきたててくれる映像でした。

三島由紀夫の『春の雪』・・・



こんな会話がある。(新潮文庫p.122~)




主人公・清顕と、その友人・本多の会話である。






本多

「俺はこの間のうちから、個性ということを考えていたんだよ。

俺は少くとも、この時代、この社会、この学校のなかで、自分一人はちがった人間だと考えているし、

又、そう考えたいんだ。貴様もそうだろう」


清顕

「それはそうさ」


本多

「しかし、百年たったらどうなんだ。われわれは否応なしに、

一つの時代思潮の中へ組み込まれて、眺められる他はないだろう。

美術史の各時代の様式のちがいが、それを情容赦もなく証明している。

一つの時代の様式の中に住んでいるとき、だれもその様式をとおしてでなくては物をみることができないんだ


清顕

「でも今の時代に様式があるだろう」


本多

「明治の様式が死にかけているだけだ、と言いたいんだろう。

しかし、様式の中に住んでいる人間には、その様式が決して目に見えないんだ。

だから俺たちも何かの様式に包み込まれているにちがいないんだよ。

金魚が金魚鉢の中に住んでいることを自分でも知らないように。

貴様は感情の世界だけに生きている。

人から見れば変わっているし、貴様自身も自分の個性に忠実に生きているとおもっているだろう。

しかし、貴様の個性を証明するものは何もない。

同時代人の証言はひとつもあてにならない。

もしかすると貴様の感情の世界そのものが、

時代の様式の一番純粋な形をあらわしているのかもしれないんだ。

・・・・・・・・でも、それを証明するものも亦一つもない」


清顕

「じゃ何が証明するんだ」


本多

時だ。時だけだよ。

時の経過が、貴様や俺を総括し、自分たちは気づかずにいる時代の共通性を残酷に引っ張り出し、

・・・・・・・そうして俺たちを

『大正初年の青年たちは、こんな風な考え方をした。こんな着物を着ていた。こんな話し方をした』

という風に、一緒くたにしてしまうんだ。

貴様は剣道部の連中がきらいだろう?

あんな連中を軽蔑したい気持ちでいっぱいだろう?」


清顕

「ああ、僕はああいう連中が大きらいだ。軽蔑している」


本多

「それなら何十年先に、貴様が貴様の一等軽蔑する連中と一緒くたに扱われるところを想像してごらん。

あんな連中の粗雑な頭や、感傷的な魂や、文弱という言葉で人を罵るせまい心や、

下級生の制裁や、乃木将軍へのきちがいじみた崇拝や、

毎朝明治天皇の御手植の榊のまわりを掃除することにえもいわれぬ喜びを感じる神経や、

・・・・・・・ああいうものと貴様の感情生活とが、大ざっぱに引っくるめて扱われるんだ。

そしてその上で、今俺たちの生きている時代の、総括的な真実がやすやすとつかまえられる。

今はかきまわされている水が治まって、忽ち水の面に油の虹がはっきりと泛んでくるように。

そうだ、俺たちの時代の真実が、死んだあとで、たやすく分離されて、誰の目にもはっきりわかるようになる。

そうしてその『真実』というやつは、百年後には、まるきりまちがった考えだということがわかって来、

俺たちはある時代のあるまちがった考えの人々として総括されるんだ。

そういう外観には、何が基準にされると思う?

その時代の天才の考えかね?

偉人の考えかね?

ちがうよ。

その時代をあとから定義するものの基準は、われわれと剣道部の連中との無意識な共通性、

つまりわれわれのもっとも通俗的一般的な信仰なんだ。

時代というものは、いつでも一つの愚神信仰の下に総括されるんだよ






実は、この後の本多の歴史観はもっと面白いのだか、


疲れたので省略する。




しかし、今書きながら思ったこと





「三島由紀夫の文章にはまったく無駄がない」






やはり、彼の精密で、その高尚な文章は誰にも真似できない、と改めて思った。





さて・・・・・


この本多の発言は、いままで自分が思ったこと、考えていたこと、


ほとんどが凝縮されている。




「貴様の個性を証明するものは何もない」


と言いながら、本多は


「時だけだ」


と答える。


「同時代人の証言」は無意味なのだ。




何度も繰り返しますが

(まあ、誰も見ていないので自分にですが笑)、


「自分を金魚鉢の中の金魚だと思うこと」


その認識だけでもいい。


その考えを持ち続けること。





これこそが学問だと思う。





金魚鉢の中が気楽だと考えて、学問を特殊な考えとして排除し、嗤い、


その生ぬるい環境に満足する金魚は、それはそれでいい。




そうした金魚たちは、せいぜい金魚鉢の中で金魚鉢の中でしか通用しないマネーゲームに溺れ、


金魚鉢の中の空気(温度?)を敏感に読み、刻々と過ぎ去る時間を一喜一憂すればいい。





ただ、私は金魚鉢の外をのぞいてみたい。


のぞく努力だけでもしてみたい。


そう思わないのだろうか?