最近、ナンシー関の文章を読んでいる。



ナンシー関とは何者か・・・


テレビ評論家?


消しゴム版画家?



彼女の経歴はいいとして、

松本人志が脱帽したというその緻密な文章と解析力は、確かにすごい。




で、私が爆笑したのは、彼女が週刊文春で連載中に書いた、


「川合俊一は生きていることがすなわち労働である」


という文章である。


(『テレビ消灯時間2』文春文庫)




タイトルから、一見マルクスを思わせる?その文章はこうである。



テレビが大好きであるというナンシーが

(一日十数時間みていたらしい)、

ときどきテレビを見ていて嫌になる時があるという。



その原因が「川合俊一なるもの」だと言うのだ。(この時点でもう笑った)



「テレビに出ている芸能人は、たとえその画面の中で何をしていようとそれは「労働」の時間であり、

今まさに「稼いで」いる姿なのである。」


「テレビタレントである川合俊一はテレビ出演することこそが労働であるわけだが、

それでは、川合にとってのテレビ出演とは何か」


「もちろん何もしていない。」


とナンシーは言う。



ここでナンシーは『アッコの泣かしたろか』という番組内で


パリでの結婚式から帰ったばかりの川合とその奥さんが、


和田アキ子に結婚報告とパリ土産を渡すシーンについて言及し、


「これは、業界の実力者とその傘下で生きる者として、プライベートで行われるべき行為である。日常生活だ。」


と言う。そして、


「歌うことを労働とするのが歌手で、演じることを労働とするのが俳優なら、川合俊一は生きていることが労働なのである」


と最後に言い放つ。




いや~爆笑しました。


「生きていることが労働」ってまさにその通り(笑)




誤解がないように言うが、おそらくナンシーは川合個人が嫌いなのではない。


「川合俊一なるもの」が嫌いなのである。




さて・・・


今のテレビはほとんど「川合俊一なるもの」な気がする。


内輪ネタ、家電を語る芸人、アナウンサーの結婚報告・・・


すべて居酒屋話である。




彼らは生きていることが労働なのだ。




ナンシー関は今なお、深い。





さて、今日は私の好きな漫画家について語ろうと思う。





標題にある通り、好きな漫画家は二人いる。



手塚治虫とあだち充である。





なぜ好きか・・・




その秀逸なストーリーテラーとしての側面だろうか。


いや、ストーリーの面白さなら、あまたのマンガがあるだろう。


ドラゴンボール、スラムダンク、ガラスの仮面・・・




私が彼ら2人に認めているのはストーリの面白さではない。

(もちろんその面もある)


彼らは優れているのは、そのストーリーテラーとしての側面以上に、まず「すぐれたマンガ家」であるのだ。





つまり、彼らは

「マンガがマンガであることの意味/マンガがマンガとして成立することの意味」

を熟知している。





ストーリーの面白いあまたのマンガは、ドラマや映画、小説へと「変換」される。


「変換」可能であるということは、すなわち、そのマンガの「内容(コンテンツ)」が注目されているからに他ならない。


その「内容(コンテンツ)」が注目されるということは、極端にいえば、「表現媒体がマンガである必要はない」。


面白いストーリーのものがたまたまマンガという形式をとっていたということである。


それらからは「マンガがマンガであることの意味/マンガがマンガとして成立することの意味」が剥奪されている。


(近年、優れたマンガに対しても、こうした「メディア変換」が強引に行われるのは悲しいばかりである)










前置きが長すぎた・・・










次の手塚治虫の画を見ていただきたい。




大学院生ちゃっぷりんのブログ



これを見たときは衝撃的だった。




言わずもがな、画に映るのは、『ブラックジャック』に登場する助手ピノコである。



ピノコの今の状態は寝ているのであるが、


そこに至るまでの手法が非常に「マンガ的」である。



たとえば、これを映像化しようとしても、マンガ独特の「吹き出し」の作用を、


しかもここで使われているような独特の「吹き出し」の作用を、表現することは不可能である。



手塚はこうした「マンガ独特の作用」を意図的に使用していた。


手塚はマンガの祖であるという以上に、マンガ独特の表現手法を確立したという意味で、


間違いなく、「マンガ家」なのである。


まあ、彼がマンガという表現形式を確立したのだから、当たり前と言えば、当たり前なのであるが。







では、もう一人の漫画家、あだち充はどうだろう。






次に示す『ラフ』の一こまも、見たとき、ぶったまげた記憶がある。



ヒロイン二ノ宮亜美は父に、主人公大和圭介の存在を隠すため、先生が彼を「やまと」と叫ぶところに、「だ」をかぶせ、「大和」の名前を「山田」に仕立てようとする場面である。






非常に秀逸である。





大学院生ちゃっぷりんのブログ




大学院生ちゃっぷりんのブログ










手塚治虫とあだち充・・・・



もっと他にも、こうした手法に意図的であるマンガ家はいるであろう。





だが、今のところ私の大好きな漫画家は、この2人しか、いない。







私は読んだことがないが、こうした手塚やあだちのマンガ的作用は、


間違いなく夏目房之介や瓜生吉則らが学術的にやっていると思う。


時間があったら、今度読んでみようと思う。

人はみな思い出す言葉というのがあると思う。



それは、好きだった先生の言葉だったり、



両親の言葉だったり、



著名人の言葉だったりする。




"名言には優劣はない"




だって、みんなその人にとっての名言なのだから。




私の場合、著名人の言葉を常に思い出す。



アップルの創始者、スティーブ・ジョブズ。




がー、なんだよ

ジョブズかよ



そう、ジョブズです笑




別に今アップルが流行だからとかではなく、純粋に心が震えたのです




有名なので、知っている方も多いと思いますが、



スタンフォードの卒業式で彼が言い放った言葉。




それに私は心が震えた








"If today were the last day of my life,



would I want to do what I am about to do today."









英語が間違ってたら恥ずかしい限りですが、



彼は33年間毎朝この言葉を鏡越しの自分に言い続けたそうです。








もし今日が人生最後の日だったら、



俺が今日しようとしていることは



本当にしたいことなのだろうか?














私もこの動画を見て以来、



9か月くらいですが、



毎日この言葉を自分に投げかけています。