今川義元の実態とは | 『歴史・生き物などつれづれと。』

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まったり・のんびりとお付き合いください。

こんにちは、ligulugoです。


最近、嵐の松本潤さんに似ているとよく言われます。


髪型を似せてるでもなし、「どこら辺が!?」と、いつも思うのですが、

人の意見を否定するのは苦手で、毎回「そうっすかねー、アッハハー」みたいに返しています。


まあ人間の脳っていうのはいい加減ですからね。

目から入った情報と、脳で感じるものは大概ずれていますから。




今回のテーマは「今川義元」です。


自分がけっこう好きな武将なのですが、

先日某テレビ番組で悪意があるかのごとく愚将として紹介されたので

史実に基づいた義元を紹介しようと思います。


かなり長くなりますので桶狭間以前・以後で分けます。



義元は1519年、駿河(現在の静岡県辺り)の守護大名・今川家第7代当主、

今川氏親(うじちか)の5男・芳菊丸として生まれます。


しかし、後の第8代当主・氏輝がいたため、4歳から仏門に入れられます。


臨済宗・善得寺に預けられ「梅岳承芳」と名を改め、教育係として氏親に要請を受けた

名僧・九英承菊(後の太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい))と共に、京に上り、

その英才教育を受けました。


そのころに九英承菊も太原崇孚雪斎と改名します。


そして、1534年、梅岳承芳17歳の時、武田氏との戦に参戦するようにと

兄の氏輝から招集がかかり、雪斎と共に駿河へ戻ります。


しかし約5ヶ月後、その氏輝が急逝します。

しかもその次の後継者の彦五郎も同日に死亡します。


その奇異な出来事から毒殺説などが囁かれますが、真実は不明です。


いづれにせよ、これで梅岳承芳に当主の座が転がり込んできました。


母の寿桂尼や雪斎たちは、梅岳承芳を環俗させ「義元」と名を改めさせます。


そして対立していた武田氏との和睦をし、家督を継ごうとしますが、

それをよく思わない今川家の有力家臣・福島氏が玄広恵探を擁立し、対立します。


寿桂尼は説得を試みますが受け入れられず、今川家の家督争い、世に言う「花倉の乱」が

起こります。


北条氏の支援を受けた義元は、これを一切寄せ付けず、圧勝。

玄広恵探を自刃に追い込み、今川家の家督を継ぎます。


義元の政治能力は突出していて、一例では政治において最も難しい年貢増をすんなりと

実現してしまったりなどです。

それも巧みな人心掌握で、どの方面にも不満の残らないやり方ででした。


そんな評判を聞き、家督相続から5ヶ月後にある人物が義元の元を訪れます。


松平家先代・清康が非業の死を遂げた「守山崩れ」により国を追われた、

松平広忠(徳川家康の父)です。


守山崩れの混乱に乗じ、居城・岡崎城を乗っ取られたため、

それを奪回するため助力を求めてきました。


そして今川家の援護を受けた広忠は、岡崎城にいる松平信定を下し、

岡崎城を取り戻し、義元の後押しにより、当主となり三河国(現在の愛知県東部)を治めます。


これにより松平氏は今川家の傘下に入ります。


一方東側では、対立していた武田氏との「甲駿同盟」を締結したことにより

北条氏と結んでいた「駿相同盟」が破綻してしまい、1536年に北条氏との争いが勃発します

(可東の乱)。


これに義元は敗れてしまいますが、1541年に北条氏の当主・氏綱が死去し、

氏康が後を継ぎます。


これに対し義元は、氏康と対立していた上杉憲政と1545年に同盟を組み、

北条氏と再度戦います(第2次可東の乱)。


これに敗れた氏康は、武田晴信(後の信玄)の仲介で和睦します。


織田信秀(信長の父)が三河に侵攻すると、1547年に三河の松平広忠から

後詰め(援軍)要請が義元のもとに入ります。


義元は三河の支配を絶対のものにするために、広忠の唯一の嫡男・

竹千代(後の徳川家康)を人質に送るように命じます。


仕方なしに広忠はこれを承諾しますが、竹千代を送り届ける際に大事件が起こります。


護送の役を請け負った戸田康光が裏切ったのです。


義元のいる駿河へ送り届けるはずが、信秀のいる尾張(現在の愛知県西部)に

船を進めたのです。


これに激怒した義元は戸田氏を根絶します。


竹千代が信秀に獲られたことにより、三河は織田氏のものになるかと思われましたが、

広忠は、なおも義元に臣従します。


肉親らに裏切られ続けた広忠は、唯一義元に心を許していたのかもしれません。


そして1548年、織田氏との戦い「小豆坂の戦い」に勝利し、三河から織田氏を

退却させます。


しかし1549年、先代清康と同じく、広忠も奇異な死を遂げます。


これにより空白となった岡崎城の城代に雪斎が入り、義元は雪斎を大将とした軍で

そのまま安祥城を包囲し、織田家の長男・信広を捕縛することに成功します。


そして、信広と竹千代の人質交換をし、三河の支配を絶対のものにします。


1553年には、父で第7代当主の氏親が敷いた「今川仮名目録」に追加をしますが、

その内容は異例のものでした。


その内容とは守護不入を否認したものだったのです。


簡単に言うと、幕府との関係を断ち、独自の法を掲げたということで、

これにより「守護大名」ではなく、「戦国大名」としての今川家が誕生したのです。


1554年には嫡男の氏真(うじざね)と北条氏の娘・早川殿が婚姻し、

今川・武田・北条の3国からなる、「甲相駿三国同盟」を締結します。


この時3国の当主が会見したといいますが、「上杉謙信の一騎掛け」同様、

伝説の範囲で語られています。


義元が勢力を伸ばす一方で、1551年に織田信秀が没してから信長がその跡を継ぎ

1559年には尾張統一を果たします。


そして、かの有名な「桶狭間の戦い」に繋がっていくのです。