小学校英語を成功させるためには、小学校と中学校との連携が絶対条件である。
たとえば、小学校でアルファベットや単語の発音をきちんと学ばせたとしても、中学校に入ってまたアルファベットから始めたら、英語の授業は生徒にとってつまらないものになる。英語嫌いがまた増えることになる。
そうならないためには、小学校で学ぶべきこととが、事前に明確になっていなければならない。
そのために、小学校と中学校が話し合いを持ち、小学校が何をできるか、中学校として何を覚えてほしいかと話し合いし(ときにはけんかもして)、小学校英語で学ぶべきことを確定しなければらない。
また、同じことは中学と高校でも言える。
ある高校に多くの学生を送り込んでいる中学は、その高校がどんな生徒を求めているかを知り、また中学校もそのために何ができるかを話し合いすることが本来なら必要である。そうやって、無駄を省き、また知らないのにそのまま先に進んで英語嫌いを増やすような愚行を避けなければならない。
だが、残念ながら今のところそうはなっていない。
これをやらないで、小学校に英語を導入してもうまくいくはずがない。小学校に英語を導入するなら、文科省はカリキュラム作りを放棄して、すべて地元の学校にまかせるべきである。介入すべきことは1つだけ、その話し合いに、できるだけ地元に近い大学にいる英語教育の専門家を派遣することだ。それ以上の口出しはすべきではない。
そういったことが考えられていないから、今回の導入が「コミュニケーションの機会を作る」といったほとんど無意味なものになってしまったのだ。
ところで、「教科でない英語」は一見すると害がないように見えるかもしれないが、それは大きな間違いである。
課外活動とはいえ、授業なのだから評価をしなければならない。では、「課外活動としての英語」にどんな評価ができるか。おそらく次のようなものになるはずだ。
・相手の目を見て挨拶ができたか。
・大きな声で返事ができたか。
・積極的に仲間に加わろうとしたか。
・外国人教師に物怖じせず笑顔で接することができたか。
もちろん、ここにはHelloやMy name's X.といった英語が介在するのだが、評価自体は英語とは何の関係もないものである。これらはすべて性格の問題でしかない。つまり、英語の授業なのに性格が評価されてしまうのである。
これは英語嫌いを増やす大きな要因になることに気づいていない人が意外と多い。少なくともそうとしか思えない。
子供には、人見知りする子もいれば、人前で大きな声を出せない子もいる。まだ成長途中なのだから当然のことだ。ところが、「英語という課外活動」では、「性格が明るくないから」「人見知りだから」ということでマイナスに成績がつけられてしまうのである。
英語ができなくてマイナスならまだましであるが、そうではない。あくまで「性格が明るくないからマイナス」なのである。
話が少し変わる。ある児童英語の研究者のセミナーを見たときのことだ。
そこでは、講演途中で、「遊びながら英語を身につける」といった趣旨のビデオが流された。小学5、6年生くらいの生徒が、口ぐちに英語を大声で言いながら、ロープをくぐったり、遊技をしたりしている。もちろん児童英語の授業におけるモデルケースとして見せてもらったものだ。
その中で、ひとりの男の子の顔がアップになった。その表情はなんともいえない「苦笑い」だった。
私は胸が痛くなってしまった。そのときにすべてわかったのだが、彼は屈辱を受けていたのである。「なんでこんな馬鹿なことをやらないといけないのか」と思っていたはずだ。いやなことを強要され、プライドが傷ついていたのだと思う。
小学5、6年というと、もういろんなことを考えている時期だ。私は小学4年のときに、自分の意識がどこから来るのかを必死に考えていた。5、6年ではすでに死とは何かについて真剣に考えていた。
もし当時の自分がこんなことをやらされていたら、彼と同じ表情をしたと思う。「なんでこんな幼稚園児みたいなことをしなければならないんだ!」と心の中で反発したはずだ。
子供を自分の経験や見え方だけで判断した結果がこれである。幼稚園児と小学校高学年を一緒くたにするのは愚行である。
こうやって英語嫌いが拡大生産されていく。
続きます。