芦屋のタロット・占星術師 広
こんにちは。広です。
先日、鑑定の折にふと心の中で浮かび上がった一言がありました。
それは、先週放送の光る君への宮の宣旨(源 ただ子)のセリフにあった言葉です。
「そちは何の為にここ(宮中の宮仕え)におるのじゃ?」
その問いに、帝の御為、中宮様の御為と答えるまひろに対し、
「生きる為であろう?」「物語は里(実家)でも書ける。」
というやりとりのシーンです。
さて、人は生き延びて行く為には、何の為にここにいるのか?という問いはあまり必要ではないのかもしれません。
戦火の中生きることや、厳しい政情下で生きることには、そのような問いを持っていたのでは忽ち生命を落としかねません。
平安時代中期であれば、一般の人々は生きること=食べていくことなのでしょう。
けれど帝だけではなく、まひろの立場はそんな問いが出てくるものなのだなあと観ていてはっとしました。
それは、私達現代人みたいだなと思いました。
この光る君へのお話が、こうも現代人の私達の心を掴むのは、そんなまひろの特殊とも言える立場に現代の私達に通じるものがあるからなのでしょうか。
それでは、人は生きて何をせんと思っているのか?
それは様々で、他人からは分かりません。親子でもわからないものです。
それどころか自分自身でもなかなかわからないものなのかもしれません。
恐らく、まひろは、世の中のたくさんの未だ知らない事を知りたい、
それは一般人が見聞きする事のできない宮中の事や、宋の事、漢籍や学問の事も
それを知りたい学びたい、己の経典を取りに行きたいといつも思っているのでしょう。
占星術で例えるならば、いつも9ハウスにいる。
9ハウスと3ハウスのラインを無くしては、そこを封じられてしまうと、もはや自分では在る事ができないのではないのでしょうか。
丁度この2人のやりとりのシーンの前に、まひろに“何の為にここにいるのか?“の問いを持ってきた人がいました。
清少納言です。
清少納言の亡き中宮様の御為、その遺児のお世話の為ときっぱりと言葉にした清少納言に大きなインパクトを受けたようです。
ああ。そうだったのか。この方はこのように固く心に決めて、肝を据えてそこに在るのだなと。
宮の宣旨はまひろの心の内、生きて何を感じたいのか、どこに己を置きたいのかという抑え難い気持ちと、里に残す娘への気持ちの両刀に揺れ動く気持ちを読み取ったようです。
親子でも、自分ですら気付かない事が多いこの己の前提条件とも言えるものに触れたこの場面。
宮の宣旨は、どんなに思っていても、どんなに近くにいても、人と人は所詮分かり合えない分かりきれないものなのだと締め括っていました。
私はそれを天体配置でみます。
その人というものを本当の意味で分かることはできないけれど、占星術の理論で得れる情報は、それでも実に多くの事を示してくれるものです。
そんなお話をしながらふとこの光る君への宮の宣旨のくだりを思い出しました。
本日もお付き合いありがとうございました。
明日もよき1日をお過ごしください!
