※緊急事態宣言発令前の外出です


【沖縄ドライブ旅】

3日目午前は、大変考えさせられる場所に行きました。
『旧海軍司令部壕』
息子君、唯一のリクエストです。
 
これは20メートルも深いトンネルのような洞窟で迷路になり450Mもあったと言われています。
現在見学できるのは300Mです。
太平洋戦争の時に、旧日本海軍🇯🇵の司令部が置かれた兵士しか立ち寄れなかった最高機密の場所です。
何よりも驚いた事は、当時のまま公開されていることで、そのため手榴弾による自爆の傷跡が残る生々しい部屋や、司令官が最期を終えた部屋もあります。
 
資料館は、亡くなった一般の方のそのままの写真、大怪我をした子供の写真も展示されていました。
 
 
 

 
戦争体験の手記↓
 
 
 
 
 
 
壕内に残された遺留品↓
大田寛海軍少尉は、千葉県の御出身で、6か月間、この沖縄の地で司令官として最後まで沖縄県民の事を思い自身の命に変えるまで必死で戦った事が記されています。
 
戦争の悲惨さを今に伝えるというためほぼ現状のままで公開されていますが、色々なガイドブックを見ましたが、とても小さく載っていて、あまり目に止められないのが残念です。
 
息子君の希望だったものの、まさか私達もこのような場所だとは、最初は想像もしていなく、この旅が計画通り進まずに時間がなければ飛ばしていたかもしれなかったからです。
 
訪れた時は、貸し切り状態のように、観光客は私達だけでした。
沖縄は美しい場所や楽しい場所ばかり目立っていますが、観光に訪れた方にも是非知ってもらうべきではないのかなと思いました。
 
実に衝撃的なところでしたが、行ったことで、本当に良かったと思っています。
そして、こちらを訪れた後に、平和祈念公園に行っていたなら、もっと戦争で亡くなった犠牲者の方への敬意がより深く重いものになっていたに違いありません。
 
洞窟の入り口には千羽鶴が飾られていました。
自然にできた観光の洞窟とは違い、地下から非常に厳かな重々しい空気が漂っています。
 
 
下から入り口を写しました↑
 
 
この洞窟は、当時は機械などもないため、すべてクワやツルハシを⛏用いた手作業で、多くの海軍設営隊によりひたすら掘り続けられたそうです。
 
司令官室、作戦会議室や、暗号室、負傷兵のための医療室も大変小さいスペースです。
 
 
 
 
作戦会議室↓
 
 
見学は電気が付いて明るさがありますが、当時の環境はどうだったのだろう❓
薄暗くて、先が見えない中で休む間もなく穴を掘り生活していたのだろうか。
 
兵士の休息部屋であった下士官兵員室は、人が溢れかえり、スペースがないために、座ることすらできずに立ったまま睡眠や休息を取ったと書かれていました。
 

 
 
この明かりが見えるところは、突撃するための出口です。
壕内には、食料はあったものの、トイレもなく水もないため、水を汲みに行くために外へ出る兵士などいたそうです。
ここから外へ出て2度と帰らなかった者も多いそうです。
そして戦争が激しさを増してからは、トイレも壕内で済ませる事になり、死体も壕内にあるために、壕内の外は危険と隣り合わせであったにも関わらず、外に出たときの空気が一番新鮮だったと言われています。
 

 
 
今世界中に猛威を奮っている新型コロナは現代のウイルス戦争のようなものです。
時に人の命を奪い恐ろしいですが、戦争とは異なり、自粛をするだけで、自宅で平穏に暮らせる人が大半です。
戦争時は、世の中のすべての人が睡眠も安心して取れないほど不安で、毎日食料も手に入らないほど壮絶な日々で、悲惨な世界で、やはりその苦しみは、コロナとは比較にならないものであることは想像がつきます。
 
 
沖縄戦での全戦没者数
200,656名
 
日本側(188,136名)
米軍側(12,520名)
 
 
 
沖縄から帰宅中の飛行機の中で、撮影した写真を振り返っていると、ここで撮影した写真を見て大変困惑しました。
 
 
まともに写っていないものが3枚もありました。
 
もちろん、わざとではありません。
 
写真は数えきれないほどの枚数を撮影しましたが、ぶれていたのは、こちらの場所で撮影したこの3枚だけなのです。
試しに、家で写真を撮ってみましたが、手を少し動かすとピンボケ程度になりますが、よほど手を大きく動かさない限りは、このような写真は撮れませんでした。
 
最近霊感が強くなっていると感じる事が多いと以前も書きましたが、平和祈念公園で感じた何とも言えない空気や、このような写真なども、何かを表しているのかもしれません。
 
ただ見る方によっては、ただの手ブレじゃないのかと思われるかもしれません。
 
私は、最初、写真を見た時にこのような状態だったことに衝撃的であまりまともに見られませんでしたが、今改めてよく隅々まで観察すると、苦しみの中にいた兵士の姿の影が写っているようにも見えます。
 
この時代の人々が命を削り残してくださった、貴重な遺産です。
このような悲惨な状況や苦しみを少しでも知り、戦争の恐ろしさを伝えていく事で、この方々の魂が救われるのではないかと思います。
 
ここからは、勇気のある方はご覧下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この写真の部屋は、幕僚数人が手榴弾を爆破させ最期を遂げた部屋です。
壁中にすさまじい傷跡が残っていました。
このようにぶれていてはっきり写りませんでした。
 
 
旧海軍司令部司令官、大田寛少尉が最期を遂げた司令官室です。
仏像が祀られていましたが、撮影した場所が写りませんでした。
 
 
通路ですが、これもぶれています。
よく見ると左側奥に数人の人が壁にもたれて立っているようにも見えます。