インドの「独立の父」と呼ばれる「マハトマ・ガンディー」という人物について。

とても有名な人物で、その名前と「非暴力」「不服従」の活動は、知っている人も、多いのではないでしょうか。

 

 

しかし、ガンディーが、どのような生涯を送ったのか。

インドの独立に関して、どのような役目を果たしたのか。

全く、知らないので、いつか、何か、一冊、ガンディーに関する本を読みたいと思っていたのですが、最近、このような本を見つけて、読んで見ることに。

 

 

なかなか、分かりやすく、面白い本でした。

この本から、ガンディーの思想に関するところは、さておき、ガンディーの人生について、紹介をしようと思います。

 

この「マハトマ・ガンディー」という名前。

 

そもそも、「マハトマ」というのは「偉大な魂」という尊称で、本名は「モハンダス・カラムチャンド・ガンディー」と言うそうです。

現在、ガンディーの誕生日である10月2日は、インドでは、国民の祝日になっているそう。

 

ガンディーが生まれたのは、1869年。日本で言えば、明治維新の翌年となります。

インドの北西部、今のグジャラート州ポールバンダルで生まれ、イギリスによる直接統治が始まって10年、この地域は、一定の支配権を認められた藩王国だったそうです。

ガンディーの父は、この藩王国の宰相で、地元の名士。母は、熱心なヒンドゥー教徒。

ガンディーは、とても、内気な少年だったそうです。しかし、真面目で、嘘をつくのが嫌いだったということ。

1883年、13歳で、結婚。これは、もちろん、親が決めたもの。

1888年、19歳で、イギリスに留学し、法律を学びます。

ガンディーは、この留学中に、後に、自身に大きな影響を与える「ギータ」と「聖書」に出会います。また、「コーラン」を始め、他の宗教の聖典なども読むようになったそうです。

1891年、弁護士の資格を取得し、インドに帰国します。

しかし、インドでは、なかなか、仕事を見つけることが出来ず、1893年、23歳の時に、南アフリカに仕事を見つけ、インドを出国。

 

当時、南アフリカは、四つの地方政権によって支配されていて、その中心に居たのはイギリスです。

その中では、インド人を始め、有色人種は、差別的な扱いを受けていました。

ガンディーもまた、ここで、差別的な扱いを経験することになります。

当初、ガンディーは、南アフリカでの仕事は一年で終了し、インドに帰国する予定だったそうです。

しかし、その時の送別会で、たまたま、手にした新聞に「ナタール選挙法」が審議中だと書かれていたことが、ガンディーの運命を変えました。

この「ナタール選挙法」は、南アフリカのナタール州で、インド人には選挙権を与えないという法律で、ガンディーは、この重要性を、周囲に訴えると、周囲の人たちは、ガンディーに、「南アフリカに残って、一緒に、戦ってくれ」と要請。ガンディーは、南アフリカに残り、戦う決意をします。

 

ガンディーは、「ナタール・インド人会議」を結成。抗議活動を開始します。

1896年には、インドに一時帰国をし、妻子を、南アフリカに連れて来ます。

1903年、ヨハネスバーグ法律事務所を設立し、立場の弱いインド人の救済に乗り出す。

1906年、「アジア人登録法案」の審議が始まる。これは、インド人に指紋の登録を義務づけ、あたかも、犯罪者のように扱うという法案で、ガンディーは、これに反対し、「サティヤーグラハ運動」を開始します。

この「アジア人登録法案」は、一度は、撤廃が約束されたものの、結局、更に、強化をされて、施行されることになります。

ガンディーを中心とするインド人たちは、登録証を焼き、進んで、刑に服するという形で、抗議をしました。これが「サティヤーグラハ運動」です。

 

実は、ガンディーは、二回、戦争に参加をしたことがあるそうです。

一回目は、南アフリカで行われた、イギリスとボーア人(オランダ系移民)との間で行われた、第二次ボーア戦争(1899~1902)で、衛生看護部隊の兵士に志願。

もう一つは、1906年、同じ南アフリカでの「ズールー人の反乱」で、同じく、志願兵として、負傷者の看護に当たる。

この時、ガンディーは、「大英帝国の臣民として、権利を要求するのなら、帝国の防衛に協力するのは、自分の義務だ」と考えたそうです。

 

1902年、第二次ボーア戦争は、イギリスの勝利に終わったのですが、ガンディーを中心として、イギリス軍に協力をしたインド人たちへの差別的扱いは、何ら、変わることはなかった。

そして、ガンディーは、再び、イギリスへの抗議活動を開始。

1907年に、南アフリカのトランスヴァール政府は、「アジア人登録法」を成立させる訳ですが、ガンディーは、これに対して「サティヤーグラハ運動」を始める。「非暴力」「不服従」の運動です。

 

そして、1913年、ガンディーは、2000人を超える鉱山労働者を率いて、行進を行う。

これは、インド人が、無許可で長距離移動を行うことを禁止していることへの抗議。

多くのインド人が逮捕され、ガンディー自身も、立て続けに、三回、逮捕される。

それでも、行進は続けられ、1914年、ついに、アジア人登録法を始め、いくつかの不平等な法律が廃止され、「サティヤーグラハ運動」は、勝利しました。

この時、ガンディー、45歳。

 

1915年1月、ガンディーは、インドに帰国。

南アフリカでの「サティヤーグラハ運動」の成功は、インドでも知られていて、インドでも独立運動の指導者になることが期待されていましたが、ガンディーは、一年間は、政治的活動を控えることを決めていて、インドの現状を知るために、インドの各地を、旅をして回ります。この時、詩人、タゴールが、3月、ガンディーに会った時に、ガンディーのことを「マハトマ」と呼びます。

5月、故郷のポールバンダルの近くに「サティヤーグラハ・アーシュラム」を設立。

この「アーシュラム」とは、修業をしながら共同生活を行う道場のこと。

ガンディーは、南アフリカでも、1904年に「フェニックス農場」、1910年に「トルストイ農場」を設立し、修業をしながら共同生活を行っていました。

これは、「サティヤーグラハ運動」を行うための、同志を育成するためのもの。

 

この共同体では、メンバーは、簡素な住まいと食事を与えられ、規律正しい生活を課せられる。全員が、農作業などの肉体労働に従事し、均一の賃金を受け取る。

子供たちのための学校もあり、「インディアン・オピニオン」という出版物を発行するための建物もあった。

この活動には、ガンディーが尊敬していた「ラスキン」や「トルストイ」の影響があったそうです。

トルストイは、作家として有名ですが、当時、反科学文明、非暴力主義の思想で、世界的に影響のある人物だったそうで、ガンディーは、南アフリカに居た頃、トルストイと手紙のやり取りをしていたそう。

 

この「アーシュラム」で生活をするメンバーには、厳しい戒律が課せられました。

それは、「非暴力」「不服従」の「サティヤーグラハ運動」を行うための精神力を育むため。

言わば、「非暴力」による戦いを行うための軍隊のようなもの。

ガンディーは、その中でも、自分自身に、最も、厳しい戒律を課して、行動をする。

 

1917年、47歳のガンディーは、チャンパーランという村の農民から陳情を受け、視察に行きます。イギリス側の州政府は、ガンディーに退去命令を出しますが、ガンディーは、それに従わず、裁判所から出頭命令を受けます。

ガンディーは、罪を認め、そのための罰は受け入れるが、農民たちのために、自主的に、ここを去る訳には行かない。そして、そのために暴力的手段は使わないと主張。

ガンディーは、不起訴処分となり、州政府は、正式に、農民の実態調査を行い、それにガンディーも参加。その結果、農民たちの負担は、大幅に減ることになる。

これが、インドでの、「非暴力」「不服従」による、ガンディーの最初の成果となる。

 

ここから、ガンディーの元には、多くの農民や労働者からの陳情が集まり始める。

ガンディーは、常に、自ら現場に足を運び、直接、話を聞き、解決を働きかけることになる。

 

この頃から、ガンディーは、手動の糸車を繰ることが、日課となったそうです。

そして、ガンディーは、他の人たちにも、それぞれの家庭で、糸車を繰り、布を織ることを勧める。

インドは、今も昔も、綿花の一大産地でしたが、当時、綿糸や綿布に加工をするのは、イギリスの専売事業だった。

そのため、インドの綿農家は、安い値段で綿を売り、貧しい生活を強いられていた。

ガンディーは、そこに目をつけ、インドで、自ら、綿糸や綿布を、生産することを思いつく。

これは「スワデーシー」(国産品を愛用すること)と言い、インドの最初の全国的な政党「国民会議派」が掲げたスローガンです。

 

1885年、インドの知識層を中心に、イギリス政府による「ベンガル分割令」をきっかけに、「インド国民会議」が発足。独立運動を急進させます。

1906年の、国民会議派カルカッタ大会で、独立に向けた四つのスローガンを採択。

「イギリス商品のボイコット」

「スワデーシー(国産品の愛用)」

「スワラージ(自治)」

「民俗教育」

この中の「スワデーシー」を、ガンディーは、「サティヤーグラハ・アーシュラム」の設立時に、戒律の一つとして採用。

ガンディーは、インドに帰国後、まもなく、国民会議派に参加し、1920年代には、その主導権を取るようになる。

 

インド人が、手作業で作った綿布は「ガーディー」と呼ばれ、ガンディーは、この「ガーディー」を買うように、国民に訴える。

イギリスからの搾取から、インドが抜出すための第一歩です。

ガンディー自身も、この「ガーディー」一枚を、腰に巻いただけの姿で、過ごすようになる。

この「ガーディー」を身に付け、糸車を繰るガンディーの姿は、世界で報じられ、インド独立運動の象徴となる。

 

 

糸車を来るガンディーの写真。身に付けているのが「ガーディー」です。

有名な写真ですよね。

 

国民会議派のリーダー格だったのが、「バール・ガンガーダル・ティラク」です。

古典学者であり、ジャーナリストでもある。

ガンディーの13歳、年上で、ガンディーは、南アフリカに居た時から、ティラクの本を熱心に読み、尊敬をしていたそう。

しかし、ガンディーの実践しようとしていた「非暴力」に関しては、意見の対立があったそうです。

1920年に、ティラクは、亡くなり、ガンディーは、その後継者の一人となる。

 

1914年から、第一次世界大戦が始まる訳ですが、イギリス政府は、インド人にも、戦争への参加を呼びかけ、その見返りに、インドの自治権を認めると約束をしたそう。

ガンディーは、このイギリス政府の要請を受けて、1918年頃から、村々を回って、兵士募集の宣伝活動をしたそう。このガンディーの行動には、批判もあったそうですが、ガンディーは、イギリス政府の約束を信じた。

そして、140万のインド人が、戦争に参加をし、10万人ほどが、死傷したそうですが、イギリス政府は、ごく一部の地域で、自治を認めただけで、インドの支配は、そのまま。

更に、1919年3月、反政府運動を、厳しく取り締まる「ローラット法」が制定される。

これは、インド人を弾圧するための法律。

これに対して、インドでは、反イギリス運動が高まり、ガンディーは、他の指導者たちと協議をし、インド全土での抗議活動を行うことが決定。

インド全土での「サティヤーグラハ運動」が、開始される。

 

ガンディーは、非暴力の抗議活動として「ハルタール」(ボイコット)を計画。

インド人が、一斉に、商店を閉め、仕事を休み、断食をするというもの。

1919年4月6日、それが、決行される。

が、この「ハルタール」運動と共に行われたデモ行進が、警察や軍と衝突を起し、暴動に発展。死傷者も出てしまう。

ガンディーは、暴動が起きている町の一人に入り、暴動を止めようとしますが、それは、不可能だった。

4月8日、ガンディーは、一時的に、警察に拘束される。

しかし、これは、ますます、インド人の怒りに火をつけてしまい、ついに、「アムリットサルの大虐殺」が起こってしまう。

 

4月6日、インドの北西部の都市、アムリットサルでも「ハタール」とデモ行進が起こる。

しかし、イギリス軍が、デモ行進を弾圧したことから、暴動に発展。

その後、州全体に集会禁止令が出されるのですが、アムリットサルの公園で、4月13日、約二万人が集まる集会が開かれた。多くの人が、集会禁止令を知らなかった。

この集会に向けて、イギリス軍が、無差別発砲を開始。死者1200人、負傷者3600人と言われる。

 

この虐殺事件もあり、ガンディーは、4月18日、「サティヤーグラハ運動」の中止を宣言。

ガンディーは、「非暴力」の運動のはずが、暴動に発展してしまったことを誤算だったと認める。

しかし、この虐殺事件の結果、イギリスは、世界各国から非難を受け、「ローラット法」は、廃止される。

ガンディーは、更に、「非暴力・不服従」の運動を、模索して行くことに。

 

1919年11月、「全インド・ヒラーファト大会」で、ガンディーは「非協力活動」を提案。

これまでの「非暴力」「不服従」に加えて、イギリス政府に「協力しない」という姿勢を、明確に、示すもの。

政府行事への出席を拒否。イギリス企業や公立学校での仕事を拒否。イギリスから授与された称号や名誉職の返還。選挙や裁判のボイコット。などなど。

 

実は、この「全インド・ヒラーファト大会」は、イスラム教徒の会合でした。

この「ヒラーファト」とは、イスラム教の指導者である「カリフ」のこと。

第一次世界大戦で、オスマン帝国が敗れると、イギリスを始め、戦勝国は、この「カリフ」制の廃止に向けて動くことになる。

それに、イスラム教徒が反発したのが「ヒラーファト運動」です。

今回の「全インド・ヒラーファト大会」では、イスラム教徒だけではなく、ヒンドゥー教徒の指導者も招かれ、反英運動を、これから、どのようにやって行くのかが議論されたということ。

ガンディーは、この大会で、イスラム教徒に、ヒンドゥー教徒との共闘を呼びかける。

ガンディーは、この、インドの二大宗教が、融和、協力をしなければならないと考えていた。

 

ガンディー自身は、ヒンドゥー教徒ですが、「宗教は、寛容でなければならない」という考えを持っていたそうです。

他の宗教を認めない「不寛容」は、一種の「暴力」だと、ガンディーは、考えていた。

この二つの宗教の対立は、インドの独立に対しても、マイナスに働くのは明らか。

また、イギリスは、当初、イスラム教側に加担をし、インドを分裂させようと考えていたようですが、それは、上手く行かず、第一次世界大戦の後、イスラム教徒も、反英に転じることになる。

ガンディーが、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒の双方に、融和を呼びかけた結果、両者は「ひとつのインド」というスローガンの元、「非協力運動」を、共闘することになる。

 

1921年、全インドで、宗教の垣根を越えたデモ行進が行われ、思想、身分、立場を越えて、非暴力、非協力運動が、展開される。

しかし、1922年2月4日、インド北部の小さな村で、またしても、暴動が起きる。

農民たちが、警察署を襲撃し、22人の警察官が、殺害される。

ガンディーは、即座に、非協力運動の停止を命じ、暴動に抗議をし、断食をする。

3月10日、ガンディーは、反政府運動を扇動したとして、逮捕、収監される。52歳。

 

1924年4月、ガンディーは、虫垂炎にかかったことで、釈放されますが、その間、イスラム教徒と、ヒンドゥー教徒の対立は、再び、激化していた。

この状況を見て、ガンディーは、三週間の断食を決行。

非暴力と寛容を、訴え続ける。

 

1926年1月、ガンディーは、一年間の政治活動の停止を宣言。

理由は、休養と、アーシュラムの管理に専念するため。

しかし、ガンディーは、結局、「外に出ない」というだけで、多くの訪問者を受け入れ、また、多くの手紙を出し、政治活動は、続く。

 

1930年1月、国民会議派は、「第二次サティヤーグラハ運動」の開始を宣言。

3月12日、60歳のガンディーは、アーシュラムのメンバーや、弟子などの同志78人と共に、「塩の行進」を開始する。

グジャラート州アフマダーバードから、ダンディーの海岸まで、約386キロメートルの距離を、24日間かけて、歩く。

このグジャラート州のアラビア海沿岸は、古くから製塩業が盛んで、イギリス人のインド統治が始まると、製塩は、政府の専売事業となり、塩には、税金がかけられていた。

ガンディーは、この「塩税法」を破り、自分たちで塩を作って、流通させることを考えていた。

ガンディーは、この「塩の行進」の出発の時に、「これは、生死をかけた最後の闘いであり、騒乱が起これば、自分たちは、死ぬかもしれない」と、仲間たちに、覚悟を示しています。

ガンディーは、この「塩の行進」の、目的と、日程を、事前に、インド総督に報告をしていた。新聞でも報道されていて、行く先々で、一般市民が、次々と、行進に参加。

最終的には、数千人の行進となり、水、食糧の支援者も出て来る。

そして、4月5日、一行は、ダンディーの海岸に到着。6日には、報道のカメラの前で、堂々と、製塩作業を始め、全インドに、同じように、製塩を行うことを呼びかける。

これにより、インドの海岸の各地で、製塩作業が始める訳ですが、ガンディーは、「塩税法」を破った罪で、刑務所に収監される。

 

この時期、ガンディーは、もう一つ「不可触性の除去」にも、力を入れていました。

つまり、インドの身分制度である「カースト制」の外と言われる「不可触民差別」の撤廃です。

ガンディーは、この不可触民への差別に、若い頃から反対をしていて、不可触民もまた、他の人たちと同様に接していました。

このガンディーの行動には、周囲の理解を得られないことも、度々、あったそうですが、ガンディーは、自分の考え、態度を、変えなかった。

 

ただ、同じく、不可触民差別に反対をする「ビームラーオ・アンベートカル」という人物とは、意見が対立をしていたようです。

アンベートカルは、不可触民の出身ですが、ポンペイ大学を卒業し、コロンビア大学、ロンドン大学でも学び、弁護士の資格を取得した異例の人物。

しかし、それでも、インドの国内では、差別をされている。

アンベートカルは、カースト制、そのものを撤廃しなければ、差別は無くならないと考えていたそうですが、ガンディーは、そこまでは、踏み込まなかったよう。

1932年8月には、「コミュナル裁定」によって、政府は、分離選挙により、ヒンドゥー教徒と不可触民には、それぞれ、個別の議席数が与えられることになりますが、これは、アンベートカルが、推奨をした政策。しかし、ガンディーは、「不可触民」という区分けが、法的に固定されると反対をしたそうです。

ガンディーは、この分離選挙に抗議するために、断食を行う。このガンディーの抗議は、大きく報道され、ついに、ガンディーとアンベートカルの会談が実現し、アンベートカルが、大幅に譲歩することで、ガンディーと合意することになる。

9月25日、ガンディーとアンベートカルとの合意による選挙制度が成立。その場で、「不可触民制の廃止」と「不可触民への差別の禁止」が、宣言される。

1933年、ガンディーは、週刊誌「ハリジャン」を創刊し、その中で「不可触制の除去」を訴えましたが、不可触民に対する差別は、無くならない。

 

1939年9月、ヒトラーのポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が、始まります。

1940年12月、ガンディーは、ヒトラーに、手紙を送っているそうです。しかし、それは、イギリス政府に握りつぶされ、届かなかった。

内容は、「自分たちは、ドイツの力を借りてまで、イギリスのインド支配を終わらせようとは思っていない」ということ。「自分たちは、軍隊の攻撃に対しても、非暴力で戦う」という宣言のようなもの。「組織化された非暴力に、敗北はない」と書かれています。

 

この第二次世界大戦の始まりは、インド国内で、イギリスに協力をして参戦するのか、それとも、イギリスの敵と協力をしてイギリスと戦うか、この二つの意見の対立を生みます。

イギリスは、また、戦後に、インドに自治を与えることを条件に参戦を求めますが、国民会議派も、インド・ムスリム連盟も、これを拒否します。

1942年8月8日、イギリス支配の即時終結と、インドの独立承認を求め、自由を条件に、イギリスへの協力を申し出る決議が、採択される。これは、ガンディーの「インドから立ち去れ」運動の決議。

しかし、8月9日、ガンディーを始め、主要な指導者たちが、一斉に、逮捕される。

これに対して、ガンディーらの即時釈放を求める抗議活動が、インド全土で起き、暴動に発展。

ガンディーは、妻や秘書と共に、アーガ・カーン宮殿で軟禁されますが、その中で、妻と秘書が、死去。ガンディー自身もマラリアにかかり、高熱を出したことで、1944年5月に、釈放されます。

 

保釈されたガンディーは、抗議活動を行った人たちの愛国心は評価しつつも、それが、非暴力でなかったことを、嘆き、非難します。

ガンディーの言う「非暴力」は、「弱者が、強者のことを恐れ、臆病で手が出せない非暴力」ではなく、「正義を貫くために、死をも厭わない非暴力」つまり「勇者の非暴力」です。

正義のために行動し、そのためには、死をも恐れない。これが、ガンディーの言うところの「非暴力」です。

 

1947年8月、ついに、インドは、イギリスから独立します。

しかし、インドの北西部、北東部の、イスラム教徒の多い地域は、パキスタン(現在の、パキスタンとバングラデシュ)として、分離独立。

これは、「一つのインド」を目指したガンディーにとっては、無念なことでした。

 

この日、インドの各地で、独立を祝う式典が行われましたが、そこに、ガンディーの姿は、無かった。

ガンディーは、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立、暴動が続く、ベンガルの農村地帯を、両者の融和を求めて、歩き回っていたそう。

 

1948年1月30日、ガンディーは、ニューデリーのベルラー邸に滞在していました。

午後五時頃、日課である夕方の礼拝に向かうため、邸宅の裏にある礼拝所への階段を上がる。多くの人たちが、話を聞くために、ガンディーが来るのを待っていたそう。

そして、ガンディーが、演壇に上がろうとした時、一人の若者が出て来て、ガンディーに、三発の銃弾を発砲。

ガンディーは、「ヘー・ラーム」(おお、神よ)と呟き、その場に倒れ、亡くなる。78歳。

 

ガンディーを殺害したのは、ナトラム・ゴードセーという人物で、ヒンドゥー教至上主義を掲げる民族集団に、かつて、所属していた、反イスラムの活動家だったそうです。

 

実は、これ以前にも、ガンディーは、何度か、暗殺されそうになっていたそう。

そのため、自分が、いつか、殺されることは、覚悟をしていたようです。

 

ガンディーの死後、ニューデリーで、盛大な国葬が行われ、150万の人が、集まったそうです。

 

以上、ガンディーの人生を、簡単に、紹介しました。

 

ガンディーの、この「非暴力」「不服従」考えを生み、行動を支えた思想については、また、別の機会に。