代田清継「江戸時代の死刑」を読了。

江戸時代の「死刑」について、色々と解説されていますが、江戸時代の裁判と刑罰についても、解説されていて、なかなか、面白い。

この本に書かれている刑罰の対象は、基本的に、庶民を対象にしたもの。

武士が対象の裁判、刑罰の場合は、また、別となるようです。

 

 

江戸時代もまた、何か、事件を起せば、裁判となる訳で、江戸時代、その裁判の仕組みは、どのようになっていたのでしょう。

まず、裁判を行うには、「法」が必要な訳で、徳川幕府は、当然、法を制定した。

 

徳川幕府は、一応、日本全国の支配者な訳で、全国的に統一すべきものは、全国の支配者として「天下一統の法度」を制定した。

同時に、徳川家の家中、そして、直轄地にのみ適用される「御料法」を制定した。

 

一方、諸大名は、「天下一統の法度」に抵触しない範囲で、自ら、法を制定することが認められていた。

元禄10年(1697)、幕府は、諸大名に「自分仕置令」という法を発し、諸大名による刑事裁判権を認める。

その内容は、加害者と被害者が、ともに、その大名の領内の者である場合、幕府の関与なしに、捜査、裁判、判決の確定、執行までを行うことが出来るというもの。

もちろん、幕府の法から、大きく外れることは出来なかったようです。

 

では、加害者、被害者が、別々の大名領の者であった場合、どうなるのか。

この場合、どちらの大名も、裁判権を持たず、一件は、幕府に送致され、しかるべき役所で、裁判が行われることになります。

そして、幕府の御料法で、裁判が行われることになります。

 

幕府の法として有名なのが「公事方御定書」です。

しかし、中世以来、武家政権は、慣習や先例によって政務を行い、裁判もまた、一般政務と明確な区別は、ありませんでした。

 

しかし、江戸幕府が始まった当初、裁判は、奉行自身の価値観に基づいて行うものという認識があったようです。

二代将軍、徳川秀忠は、町奉行の島田利正が、「自分の扱った裁判例を、後の参考に、書物にまとめたい」という申し出を、許可しなかったそうです。

理由は、他の奉行たちの判断を鈍らせることになるから。

つまり、判例に縛られては駄目だという認識があったのでしょう。

 

しかし、奉行たちは、他にも、多くの仕事を抱えていて、次第に、奉行は、配下の役人の判断を承認するだけの存在になってしまう。

つまり、実際の政務を行うのは、奉行の下に居る役人たち。

裁判もまた、同じで、奉行が裁判に顔を出すのは、形式的な手続きが必要な時だけ。

つまり、裁判を行うのは、奉行個人ではなく、奉行所という組織になって行く。

 

個人の価値観ではなく、組織として一貫した判断を行うためには、個人の裁量を排除し、先例によって判断をすることが必要となって行く。

そして、元禄年間(1688から1740)の末から、宝永年間(1704から1711)にかけて、役人たちの間で、私的に、裁判例の編纂が行われる。

 

そして、八代将軍、徳川吉宗によって、「公事方御定書」が制定される。

この「公事方御定書」は、上下の二巻から成り、上巻は、これまでの主要な法令が収録され、下巻には、訴訟手続きや、各種の犯罪と刑罰を箇条書きにしたもの。

裁判で使われるのは、下巻ということになる。

ちなみに、「公事方御定書」は、「先例を抽象化した規定の集まり」と言える側面があったそうです。

また、この「公事方御定書」の制定以降も、裁判の判例集の編纂は、行われたということ。

 

さて、江戸時代の刑罰を、現代の法学のように分類すると、

「死刑」(生命刑)

「自由刑」

「身体刑」

「財産刑」

「身分刑」

「名誉刑」

に、分かれるそうです。

 

死刑に関しては、別に話すこととして、まず、「自由刑」とは、特に、移動の自由を奪う刑罰となる。

重いものから順に、

「遠島」

「重追放」

「中追放」

「軽追放」

「江戸拾里四方追放」

「江戸払」

「所払」「百日手鎖」

「五十日手鎖」

「三十日手鎖」

と、なります。

 

まず、「遠島」について。

この「遠島」は、文字通り、遠くの島に配流する刑罰です。

江戸時代、裁判の後、刑の執行は、即時に行われるのが普通ですが、この「遠島」は、受刑者は、江戸、または、大坂に集められ、特定の時期に、島に送られることになる。

美濃国以東の裁判で「遠島」が決まった者は、伊豆七島(後に、八丈島、三宅島、新島のいずれか)に流される。船が出るのは、春と秋の二回で、それまで、受刑者は、小伝馬の牢に収容された。

近江国以西の受刑者は、大坂に集められ、年に一度、おおむね、四月から五月の間に、薩摩の諸島、肥前の五島、隠岐、壱岐、または、肥後の天草に流される。

ただ、長崎奉行だけは、直接、長崎から、各島に送った。

 

次ぎに「追放」について。

この刑罰について、受刑者の立ち入り禁止区域は「御構場所」と呼ばれます。

受刑者には、この「御構場所」を記した「御構状」が、読み上げられ、その後、受刑者に、御構状を投げつけるという形で、交付された。

 

「重追放」では、武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸、甲斐、駿河、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路筋。

「中追放」では、武蔵、下野、甲斐、駿河、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路筋、日光道中。

「軽追放」では、江戸拾里四方、京、大坂、日光、東海道筋、日光道中。

「江戸拾里四方追放」では、江戸日本橋を起点にして、五里四方。

「江戸払」では、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷の大木戸の内。

「所払」では、罪人の居住する町や村。

 

さて、受刑者を、特定の空間に収容、または、身体の一部を拘束して自由を奪うという刑もありました。

「過怠牢」

「永牢」

「預」

「戸〆」

「押込」

「手鎖」

など、以上は、庶民に課される刑罰。

他、武士、僧侶に対しては、

「閉門」

「逼塞」

「遠慮」

があった。

 

「過怠牢」は、刑罰としての入牢。女性、または、幼年者が、「敲」(たたき)を科すべき罪を犯した時、代わりに用いられた。50日(50敲の代わり)と100日(100敲の代わり)の、二つ。

「永牢」は、終身牢舎の刑罰。死刑、または、遠島の刑罰に当たる者が、自首をした場合に、用いられた。

このような、公的施設に収容するという刑は、江戸時代では、例外的なもの。

 

「預」(あずけ)は、特定の人物、または、団体に、受刑者の身柄を預けるもの。町預、村預、親類預、宿預、などがあった。

 

「戸〆」は、釘を打って、門を閉ざしておく刑罰。

「押込」は、戸を立て寄せて、外出を許さない刑罰。

受刑者にとって、拘禁刑であると同時に、周囲に、その様子を知られる名誉刑でもあった。

 

「手鎖」は、30日、50日、100日があった。

ちなみに、油を使えば、封印を解かずに、外せたという話もあり、実行性は、定かではないということ。

 

次ぎは、身体刑で、受刑者の身体に、物理的有形力を加える刑罰。

江戸時代の初期には、耳や鼻をそぎ落とす刑や、指を切り落とす刑も、まだ、存在していたそう。

八代将軍の徳川吉宗は、これらの刑を禁止する。

 

まずは、「入墨」。

刑は、牢屋敷で執行され、入れた墨が定着するまで、牢に留め置かれた。

入墨の入れ方は、様々で、地方によって特色があった。

腕や、顔に、入れられ、見ると、何の罪を、何回犯したのかが、分かるようになっている。

 

「敲」は、徳川吉宗が、考案したものと言われている。

刑の執行後、直ちに、受刑者は、身元引受人に引き渡されたため、受刑者が立って歩けるように、背骨を避けて、肩から尻にかけて、打つことになっていたそう。

受刑者が、病人や老人の時には、打ち方を弱めることもあったそうです。

回数は、50回、100回。

ちなみに、身元引受人の居ない無宿者は、刑の執行後、江戸石川島の人足寄場、または、佐渡の金山に、水替人足として、送られたそうです。

 

この「入墨」と「敲」は、窃盗などの財産犯のみに科された刑罰で、累犯加重の方針が取られていた。いかに軽い盗みでも、三回、犯すと、死罪になったそうです。

 

また「剃髪」は、女性にのみ、科された刑罰。

男女の関係に関わる事件の刑罰だったようで、髪は、一度、剃れば良く、その後は、普通に伸ばしても良かったそう。

 

「財産刑」には、正刑として科される「過料」と、付加刑として科される「闕所」(けっしょ)があった。

 

「名誉刑」は、名誉を剥奪、または、恥辱を与える刑罰。

「身分刑」は、社会的身分を変更、特に、降格させる刑罰。

これらには、

「役儀取上」

「叱」

「晒」

「奴」

「非人手下」

があったそうです。

 

「役儀取上」とは、町の名主や、村の組頭といった役職を免じる刑罰。

 

「叱」とは、文字通り、役所に呼び出して、その罪を叱責すること。

叱責の文面は、あらかじめ用意されていて、奉行や、役人が、これを読み上げる。

最初は、穏やかな口調で読み始め、だんだん、声を大きくして行き、最後は、怒鳴るようにして、受刑者を畏怖させたそう。

 

「晒」には、本刑になる場合と、付加刑になる場合がある。

幕府の法で、「晒」が本刑になるのは、女犯の僧のみだった。

しかし、これも、「晒」の上、寺法処罰となるので、実質的には、付加刑だった。

死刑に処される者を晒す時には、箱の中に罪人を座らせ、首だけを出して晒す。

晒し場所は、日本橋南詰の広場で、その対面には、高札場があった。

 

「奴」は、受刑者の身分を、隷属的使用人に落とすもの。女性にだけ、適用され、「女奴」と呼ばれた。

 

「非人手下」とは、穢多頭である弾左衛門の立ち会いの下、受刑者を非人頭に渡して、非人とするもの。

 

さて、これらの刑罰が、犯罪者に科せられることを決める、徳川幕府の刑事裁判の手続きについて。

 

幕府の裁判の手続きは、「吟味筋」と「出入筋」の二つに分かれる。

「吟味筋」が、現在の刑事訴訟、「出入筋」は、現在の民事訴訟に相当する。

「出入筋」では、原告、被告、双方の意見を聞き、裁定をすることになる。

「吟味筋」では、今の検察官、原告は存在せず、役所が、事件の捜査、犯人の逮捕、罪責の追及までを、一貫して、行っていたそう。

 

幕府の刑事裁判には、「手限」(てぎり)というものがあったそうです。

この「手限」とは、専決権限のこと。

これには、「吟味手限」と、「仕置手限」の二種類があった。

「吟味手限」とは、裁判の取り調べにおいて、他の役所の関与なしに行いうる権限や範囲のこと。

「仕置手限」とは、刑罰の決定や執行についての権限や範囲のこと。

 

「吟味手限」は、各役所の管轄地域を中心に決定される。

役所によっては、犯罪類型や罪の重さによって制限があった。

そのため、この「吟味手限」を超える事件は、その役所で裁判を行うことができず、その手限を持つ他の役所、おおむねその役所を支配する役所に送致、移管される。これを「差出」と呼ぶ。

 

「仕置手限」は、刑罰の重さによって、決定される。

この「仕置手限」を超える場合、支配役所に判決草案を提出。支配役所から指図を受けて、判決の告知を行った。

 

ちなみに、江戸町奉行。

その「吟味手限」は、江戸の町全体。加害者、被害者が、共に、江戸の町に住む者ならば、専決で審理を行うことが出来た。

そして、その「仕置手限」は、「中追放」まで。「重追放」以上は、判決草案を作成し、老中に伺いを立て、老中の指図を受けて、刑の執行を行った。

 

ちなみに、火付盗賊改は、火付け、盗賊などの、一部の犯罪にのみ、吟味手限を持っていた。

更に、「仕置手限」は、全く、無く、裁判を担当した事件は、全て、老中に、伺いを立てる必要があったそう。

 

さて、犯人が捕まった場合。

 

奉行所での最初の取り調べは「一通糺」と呼ばれ、白洲で行われ、奉行も出席した。

内容は、形式的なもので、関係者の人定尋問、罪状の把握がおこなわれ、拘留が決定する。

これ以降、被告人は、裁判が終わるまで、拘留される。

病人や幼少者は、牢とは別の施設に収容された。

 

これ以降、取り調べに奉行は関わらない。

町奉行では、「吟味方与力」と呼ばれる役人が、被告人の取り調べをした。

この時、最も、重要なのが「自白」です。

物的証拠が無くても「自白」で、有罪になり、物的証拠があっても「自白」が無ければ、有罪にはならなかった。

そのため、「自白」をさせるために「責問」(拷問)が、行われることもある。

もっとも、「責問」は、なるべく、行うことなく、口頭による聞き取りである「口問」が、原則。

 

罪状が明らかになると、刑罰を決定する手続きとなる。

町奉行の場合、判決原案の作成には「手附同心」が当たった。

手限を超える場合や、判断の難しい場合には、老中に「仕置伺」を提出。

この場合、老中は、「仕置掛奥右筆」に、仕置伺を下して、審議させる。

また、評定所に仕置伺を送って、評議をさせることもあった。

 

刑罰が決定すると、判決の告知が行われる。

吟味筋における判決の告知を「落着」と呼んだ。

三奉行、火付盗賊改、評定所などでは、白洲において奉行が出席し、「申渡」という書面を朗読。口頭で、判決を告知した。

ちなみに、無罪の場合は、「構無」と申し渡された。

 

以上は、庶民に対する手続き。

武士については、また、別だったそうです。

 

江戸時代、徳川幕府もまた、色々と、裁判には、細かい規則があったようですね。

なかなか、面白い。