子供の頃、現在の「京都御所」は、かつての「平安京」の「内裏」だと、勝手に、思い込んでいた。
しかし、それが、全く、違う場所にある別物だということを知って、驚いたのは、随分と、後のこと。
現在の京都御所は、平安京にあった「大内裏」のあった場所から、東に外れた場所にある。
なぜ、このようなことになっているのでしょう。
この本から。
平安京には、中央の北の端に面した場所に「大内裏」と呼ばれる区域があります。
この「大内裏」とは、朝廷が、政務を行う場所ということになる。
そして、この「大内裏」の中に、「内裏」があり、これが、天皇が生活をする私的な区域ということになります。
平安京に都が移された当初、天皇は、毎日、内裏から、大内裏に出て、政務を行っていたようです。
しかし、この、天皇が、大内裏に出る回数は、次第に、減って行くことになります。
まずは、月に、数度。
次ぎに、年に、数度。
最後には、天皇は、全く、内裏から出て来なくなります。
ならば、政治は、どうしたのかと言えば、政務を執る公家たちの方が、内裏を訪れていたそうです。
つまり、「大内裏」という空間は、不要なものとなってしまった。
さて、天皇の私的な空間である「内裏」について。
平安時代の途中から、内裏の中に籠り、外に出て来なくなった天皇ですが、ずっと、この内裏の中に居た訳ではありません。
この内裏、大内裏は、時折、火事に見舞われた訳で、そこに、住むことが出来なくなった天皇は、臣下の邸宅に移動し、内裏が復旧するまで、そこで、過ごすことになります。
これが、「里内裏」と呼ばれるもの。
元々、この里内裏は、内裏が復旧するための仮の住まいでした。
しかし、天皇の生活の場は、次第に、内裏よりも、里内裏での生活の方が、多くなる。
そして、平安時代の後期、「院政」が始まると、天皇は、内裏を、放棄することになります。
これは、天皇の意思というよりも、元天皇である、天皇の父、または、天皇の祖父である最高権力者、いわゆる「治天の君」の判断によります。
こうして、放棄された「内裏」「大内裏」は、廃墟と化して行きます。
ちなみに、この院政の行われた時代、京都の町は、鴨川の東に、拡大をして行き、整備されて行きます。
時の「治天の君」も、そこに拠点を置いて、政治を進めた。
そして、この頃、平安京は、天皇の代替わりなどの儀式に使うための、一部だけが、整備されていただけのようですね。
具体的には、朱雀大路の一部と、大内裏の南面の壁の部分。
つまり、天皇の儀式に使うための、見物客から、「見える部分だけ」が、整備をされていたということ。
そして、内裏、大内裏は、廃墟となって行く。
なぜ、院政を行った「治天の君」が、天皇の住まいである内裏、大内裏の放棄を決めたのか。
それは、白河法皇自身の言葉が、残されているそうで、それは、
「広すぎる」
と、言うこと。
つまり、大内裏、内裏は、あまりにも広すぎて、不便だということのようです。
もっとも、平安京自体が、当時の日本の国力からして、あまりにも、広すぎ、人が生活をすることを考慮していない平安京は、何をするにも、不便だった。
そのため、ほぼ、人の住まない右京は、早くから、過疎化をし、荒廃。
人口密集地となった左京の北部でも、住民による平安京の破壊が続いていたことは、以前にも、書いたろころ。
そして、「治天の君」が、内裏を放棄することを決めたことには、院政の力の源泉である「天皇」という存在を、手元に置きたかったという意図もある。
しかし、天皇が、実の父や、実の祖父と同居をするというのは、かなり、異例なことで、認められなかったようです。
そして、天皇は、「里内裏」を、自身の住居とすることになる。
この「院政」は、公家が、日本の権力者であった、最後の政治体制ということになる。
この院政の時期に台頭を始めるのが、「武士」と呼ばれる人たち。
まず、平家が、台頭し、源氏と平氏の戦いの結果、源氏が、鎌倉に、幕府を開くことになる。
この、武士が、台頭を始めた頃、大内裏、内裏は、荒廃し、野原のようになっていたようです。
そして、かつて、平安京の中心である大内裏、内裏のあった場所は、京都の町の西の外れとなっていて、「内野」と呼ばれていたようです。
鎌倉時代、幕府によって、「京都大番役」という役目が設けられ、多くの武士が、京都に入ることになる。
その後、幕府によって、「六波羅探題」が設置され、更に、武士が、京都の町に集まる。
かつての、大内裏、内裏があった内野は、この武士たちの「馬場」として使われ、また、弓馬の練習場として使われたそうです。
広く、空き地になっていたことが、よく分かる。
この鎌倉時代、天皇の系統は、「大覚寺統」「持明院統」の、二つに分裂する。
いわゆる、「両統送立」という状態。
大覚寺統と、持明院統から、交互に、天皇を出すというもの。
そして、この間、天皇の住まいである里内裏は、転々とすることに。
鎌倉時代の末期、大覚寺統から、後醍醐天皇が登場し、鎌倉幕府が、滅亡することになります。
しかし、後醍醐天皇の始めた「建武の新政」は、長続きすることなく、足利尊氏と対立。
足利尊氏は、新たな天皇として、光明天皇を立てる訳ですが、この光明天皇は、土御門邸を、里内裏とします。
これ以降、北朝の天皇は、代々、この土御門邸を里内裏として生活をすることになる。
これが、今の「京都御所」に繋がる。
そして、この天皇の御所を、本格的に整備をしたのが、室町幕府第三代将軍、足利義満です。
これが、今の「京都御所」です。
ちなみに、戦国時代、天下統一をした豊臣秀吉は、京都に「聚楽第」を建設しますが、この「聚楽第」が作られた場所が、かつて、大内裏のあった場所だそうです。
しかし、この「聚楽第」は、豊臣秀次が処分をされたことによって、わずかな間しか、存在をしなかった。

