鎌倉時代以来、九州、豊後国の守護を務めていた「大友氏」。

元々、名字の地となるのは、相模国大友郷。

大友氏初代の大友能直が、九州の豊後国、筑後国の守護職に、任命される。

実際に、大友氏の当主が、豊後国に下るのは、三代目の大友頼泰が、最初ということ。

以後、大友氏は、豊後国に定着して行く。

 

戦国時代、第21代目の当主、大友義鎮(宗麟)の時代に、大友氏は、最盛期を迎えます。

この、大友義鎮に関しては、関心を持っているところですが、なかなか、良さそうな本が無い。

 

 

この本、以前、読んだのですが、大友氏の歴史や、大友義鎮の政治、豊後府内の町の様子などに、色々と、触れられていましたが、大友義鎮の生涯という点に関しては、なかなか、イメージが湧きづらかった印象があります。

 

この大友義鎮に関しては、様々な逸話が残されていますが、やはり、多くが、江戸時代に創作をされたもので、大友義鎮という人物を、貶めるような内容のものが多い。

やはり、大名として、大友家が江戸時代に残らなかったため、その理由、責任を、大友義鎮に負わせるために、そういう逸話の数々が、江戸時代に、創作されたのでしょう。

 

個人的には、大友義鎮という人物は、政治家として、なかなか、優れた人物だったのではないかと思っている。

しかし、軍事には、あまり関心が無かったのか、合戦は、他人任せという印象があり、それが、島津氏、龍造寺氏などの台頭を、抑えられなかった原因かと思うところ。

 

大友義鎮は、天正4年(1576)という早い時期に、家督を、嫡男の義統に譲っている。

しかし、大友家の実権は、義鎮が、握り続けた。

大友義鎮が亡くなったのは、天正15年(1587)、豊臣秀吉による島津征伐が、終わる直前ということ。享年、58歳。

大友義統が、大友家の実質的な当主として振る舞うようになったのは、この頃からでしょう。

 

天正16年(1588)、大友義統は、豊臣秀吉に謁見。

この時、「吉」の字を貰い、「吉統」と改名する。

 

大友吉統は、豊臣秀吉から、かなり、目をかけられていたようですが、その運命が、一変する。

それは、「朝鮮出兵」での出来事が原因。

以下、この本を元に、

 

 

文禄元年(1592)、豊臣秀吉は、朝鮮出兵を始めます。

これが、「文禄の役」と呼ばれるもの。

この時、大友吉統もまた、出陣を命じられる訳で、大友軍も、朝鮮半島に上陸します。

当初、日本軍は、快進撃を続け、小西行長軍、加藤清正軍が先鋒として活躍をしますが、次第に、劣勢となります。

 

平壌に居た小西行長は、黒田長政、大友吉統らに援軍を要請しますが、彼らは、援軍として平壌に向かうことは無かった。

そこで、小西行長軍は、大友吉統の居た鳳山に撤退しますが、そこに、大友吉統は、居なかった。

これを、戦場からの逃亡と判断した豊臣秀吉は、激怒をし、豊後国を没収することを決定します。

 

なぜ、大友吉統が、鳳山に居なかったのか。

それは、どうも、家臣の志賀親善が、小西行長が戦死をしたという情報を受け、大友吉統に撤退を進言したからということだそうです。

 

豊臣秀吉が、なぜ、このような厳しい処分を行ったのか。

それは、恐らく、他の大名たちへの「見せしめ」のためだろうということ。

 

この朝鮮出兵では、様々な大名が、豊臣秀吉から、理不尽とも思える処分を受けることになる。

その結果、軍監として派遣をされていた石田三成ら、奉行たちと、加藤清正ら、現地で戦った武将たちとの間の、激しい確執が生まれたとも言われている。

ちなみに、豊臣秀吉死後に起こった、加藤清正、福島正則ら「七将」による、石田三成襲撃事件は、この朝鮮出兵での処分の取り消しを求めるのが目的だったと言われているようです。

 

その、豊臣秀吉の行った処分の中でも、「所領没収・お家取り潰し」という、最も、過酷な処分を受けたのが、大友吉統です。

これは、やはり、朝鮮半島で戦う、他の武将たちへの「見せしめ」に違いない。

ネットを見ると、秀吉自身も、手紙の中で、そう書いているようですね。

 

朝鮮半島から、呼び戻された大友吉統は、毛利輝元に預けられ、子の大友義乗は、加藤清正軍に、組み入れられることになる。

 

大友吉統は、わずか、4,5名の従者と共に、毛利輝元に預けられ、その後、20数名の家臣と共に、山口にある本国寺に、幽閉される。

大友吉統は、出家をして「宗厳」と名乗ります。

 

翌年、大友吉統は、常陸国の佐竹義宣の元に送られる。

子の大友義乗は、加藤清正の元から、武蔵国牛込に移され、徳川家康の監視下に置かれた。

豊後国は、豊臣家の蔵入地となり、後に、豊後国は、六つに分割統治されることになる。

 

朝鮮半島にあった大友軍は、各大名の軍に配属され、散り散りとなり、そのまま、崩壊したと考えられる。

豊後国に残っていた大友家の家臣たちは、当然、牢人となる。

また、他の大名に、仕官をする者たちも居た。

 

ここに、鎌倉時代以来の名門「大友氏」は、大名として、滅亡した。

 

豊臣秀吉が亡くなるまで、大友吉統は、佐竹氏の元で、幽閉生活を送っていたと思われる。

しかし、豊臣秀吉が亡くなると、幽閉生活は解かれたようで、正親町天皇に、硯を送っている記録が、残っているそう。

 

慶長5年(1600)、「関ヶ原の戦い」の時、大友吉統は、豊後国を与えられたと言われている。

または、豊後国速水郡を与えられただけという説もあるそう。

 

そして、大友吉統は、西軍、毛利輝元の支援を受けて、豊後国に上陸する。

大友吉統の元には、5、6千人の軍勢が集まったそうですが、それは、大友家の旧臣たち、つまり、牢人が、多くを占めていたそう。

また、他家に仕えていた者たちの中にも、この挙兵に参加をするために、戻って来た者も居た。

 

しかし、「石垣原の戦い」で、東軍の黒田官兵衛に敗北し、大友吉統は、捕らえられる。

 

大友吉統は、最終的に、秋田義季に預けられ、慶長10年(1605)、常陸国で、亡くなる。

ちなみに、子の大友義乗は、徳川家康によって、「高家」に取り立てられる。

大友義乗は、慶長17年(1612)に亡くなり、その子の大友義親が、元和5年(1619)に早逝したことで、名門、大友家は、断絶、滅亡する。