「飛鳥・藤原の宮都」が、世界遺産に認定されたという報道がありましたね。

ネットで調べて見ると、19の資産で構成され、「宮殿、官衛跡」「仏教寺院跡」「墳墓」の、三つに分類出来るということ。

6世紀末から、8世紀にかけて、日本という国の国家体制が、形成されて行く様子が、残されている。

 

この「飛鳥時代」の頃から、天皇の住む場所が、一カ所に定着するようになって行く。

そして、藤原京が建設されたことで、中央集権体制が、確立することになる。

 

さて、今、この本を、図書館で、読んでいるところ。

 

 

まだ、最初の方ですが、なかなか、面白い。

 

元々、日本の大和政権では、天皇(大王)は、代替わりの度に、天皇の住む場所、つまり、王宮の場所が、変わっていた。

これは、なぜなのか。

これまで、読んだ本によると、いくつかの解釈があるようです。

 

一つは、「穢れ」を避けるため。

 

天皇の死という、最大の穢れから、逃れるために、王宮を移したということ。

 

一つは、「天皇の生まれ、育った場所が、王宮になった」という説。

 

かつて、天皇は、血統に関係なく、豪族が、持ち回りで、出していたのではないかという説がある。

つまり、その天皇となる人が、生まれ、育った場所が、王宮になったため、王宮が、代替わりの度に、移転をすることになったということ。

 

一つは、「天皇を支える豪族の影響」という説。

 

つまり、即位をした天皇を支える有力豪族の意向で、王宮が決まったということなのでしょう。

 

しかし、上にも書いた通り、天皇の住む王宮は、飛鳥時代の頃から、一カ所に定まるようになり、その周囲に、国の政治を司る施設が、建設されるようになって行く。

そして、永代に渡って、日本という国の「都」であることを前提として作られたのが、「藤原京」ということになる。

 

なぜ、「藤原京」が、作られたのか。

 

これには、国家の「中央集権」が求められたから、と、言うことになるようですね。

つまり、有力豪族を、その支配する土地から、引き離し、藤原京に移住させることで、その力を削ぎ、豪族もまた、「天皇の家臣である」ということを明確にした。

 

こちら、ネットで見つけた、「藤原京」の図。

その後の、平城京、平安京などと違い、天皇の住む場所が、条坊制の都市の中央、やや、上にありますよね。

これは、なぜなのか。

 

昔、読んだ本では、「当時の日本は、唐の事情を、よく分かっていなかったのではないか」と書かれていたものがあった記憶があります。

つまり、唐の長安を真似たのですが、間違っていたのでは無いかという解釈。

しかし、上の本によると、この「藤原京」は、唐の長安を真似たのではなく、理想の国家と言われた古代中国の「周」の都市を真似たため、と、言うことのようです。

 

しかし、この藤原京は、短い期間で、放棄され、その後、この「〇〇京」という都市は、転々と、建設、放棄されることになる。

その中で、「平城京」は、長く続き、その時代は、「奈良時代」と呼ばれる。

 

この「平城京」は、唐の「長安城」を模して、建設された。

 

こちら、「平城京」の図。

綺麗な四角形ではないですが、天皇の住む場所が、北の端に、置かれている。

 

そして、「平安京」です。

 

この「平安京」に、都が移されてから、約1000年、ここに、天皇が居て、ここが、日本の首都だった。

日本の都城の完成形、と、言うことになるのでしょう。

 

さて、この「平安京」ですが、これまで、特に、深く、考えたことがなかった。

しかし、色々と、この「平安京」について、上の本を読んでみると、なかなか、面白いですね。

 

まず、この「平安京」の図ですが、これは、「完成予想図」だそうですね。

つまり、実際に、このような「平安京」は、存在しなかった。

ならば、実際の「平安京」の姿は、どのようなものだったのか。

 

それは、今後、本を読み進めて行かなければ、と、思っているところです。