今回、放送されたNHKの「歴史探偵」。

テーマは、「竹中半兵衛と黒田官兵衛」でしたね。

しかし、個人的に、疑問に思ったことも、いくつか。

 

まずは、番組の中で登場した「黒田家譜」ですが、これは、黒田家の公式記録と言うことになるのでしょうが、恐らく、書かれていることの多くに、創作が含まれているものと思います。

黒田官兵衛を、優れた「軍師」とするイメージは、この「黒田家譜」によるものなのでしょうが、その多くは、江戸時代に創られた創作物語でしょう。

 

また、竹中半兵衛が、黒田官兵衛が有岡城で拘束された時に、黒田官兵衛の息子、松寿丸を匿ったという話も、番組の中で話されていましたが、これが史実ではないことは、雑誌「歴史街道」にも書かれていた。

 

やはり、一般向けのテレビ番組を作るには、視聴者の興味を引く、有名な逸話は、取り上げざるを得ないということになるのでしょうかね。

一次史料だけに限って、番組を作っても、「正しい歴史を知りたい」という歴史ファンには、評価をされるかも知れませんが、一般的な「歴史好き」の人にとっては、「好きな人物のイメージが壊れる」ということで、好まれないのかも知れない。

 

さて、今回、番組の中で、「備中高松城の水攻め」についても、取り上げられていましたね。

 

天正10年(1582)3月、羽柴秀吉は、播磨国姫路城を出陣し、備中国に向かう。

 

ちなみに、前年、宇喜多直家は、病死をしています。

宇喜多家は、まだ幼い、嫡男の秀家が、継ぐことになった。

実は、羽柴秀吉が、出陣をする直前の、2月。

宇喜多軍と毛利軍が、備前国児島の八浜で合戦。

この時、宇喜多軍の大将だった宇喜多基家が、戦死。

宇喜多軍は、敗北をしますが、何とか、総崩れを防ぎ、毛利軍を食い止めた。

羽柴秀吉が、出陣を決意したのは、この八浜合戦の影響があったのでしょう。

 

当時、宇喜多氏、毛利氏の勢力の境目は、備前国、備中国の国境付近にあった。

毛利氏は、この国境付近にある七つの城を、防衛ラインと定めます。

北から「宮地山城」「冠山城」「備中高松城」「加茂城」「日幡城」「庭瀬城」「松島城」となります。

 

宮地山城には、4月に、毛利氏の武将、乃美元信が入ります。

城兵は、約400人。

5月2日、宇喜多氏の和睦交渉に応じ、開城。

 

冠山城の城主は、林重真。

城兵は、約300人。

4月15日、羽柴軍、宇喜多軍の攻撃を受けますが、これを退ける。

4月25日、城内で、火災が発生。

羽柴軍が、一気に、城に攻め込み、応援に入っていた早島城の城主、竹井将監は、加藤清正と戦って、討ち死に。

城兵、139人が、討ち死にし、城主の林重真は、自害。

落城する。

 

加茂城の城主は、上山兵庫。

毛利氏からの加勢として、生石中務が城に入っていましたが、宇喜多氏の説得を受けて、寝返る。

生石中務は、宇喜多勢を城に引き入れますが、この裏切りは、失敗し、宇喜多勢は、城から敗走することになる。

 

日幡城の城主は、日幡景親。

家臣の上原が、秀吉の説得に応じて、寝返る。

日幡景親は、裏切った上原を討とうとしますが、逆に、殺害されてしまう。

上原は、羽柴軍を、城に引き入れますが、小早川隆景は、家臣の楢崎忠正を派遣し、城を奪い返す。

 

庭瀬城の城主は、井上有景。

城兵は、約800人。

高松城と同じく、周囲を沼に囲まれ、難攻不落。

毛利軍、羽柴軍が、和睦をするまで、城は、持ちこたえます。

 

松島城は、備中高松城から、最も遠く、羽柴軍の攻撃を受けていないそうです。

 

そして、備中高松城。

城主は、清水宗治。

城兵は、約3千。

 

この境目の七つの城の中で、この備中高松城が中心だったことは、この様子から、よく分かる。

羽柴秀吉軍の本隊は、この備中高松城を落とすことを目指した。

 

この時、沼地に囲まれた城の特長から、羽柴秀吉は、「水攻め」を決意します。

この「水攻め」を進言したのは、黒田官兵衛だと言われていますが、これは、史実なんでしょうかね。

どうも「軍師」のイメージに引きずられた、後世の作り話のような気がしないでもない。

 

この図は、当時の状況を表したもの。

 

城の西から南にかけて、3キロに及ぶ、巨大な堤防が造られたと言われていましたが、これは、史実ではないのではないかと番組の中では、検証をされていましたね。

 

これほど、巨大な堤防を築かなくても、城を水没されることが出来るということは、以前、あるところで読んで、知っていました。

地形の状況から、足守川の川の流れをせき止めて、城の方に、水を流すための堤防。

そして、南側に、水が流れ出すのを防ぐための堤防。

この二つの、短い堤防があれば、城は、水に、沈むそうです。

 

番組の中で、シミュレーションがされていましたが、2日くらいで、城は、水に沈むそうです。

城が、水に沈むということは、井戸が使えない、カマドが使えないということで、「兵糧攻め」の意味があったのでは、と、話していました。

それは、納得です。

 

さて、この戦いの中、羽柴秀吉は、なぜ、織田信長の出陣を仰いだのでしょうね。

 

織田信長の出陣が無くても、毛利氏を破ることは、可能だったと思われますが。