雑誌「歴史街道」の今月号。

「戦国時代の絵師たち」

と言う記事があり、なかなか、面白かったです。

 

 

歴史に名を残す絵師は、数多いですが、その中でも「狩野永徳」は、特に、名高い絵師の一人ではないですかね。

この狩野永徳は、「狩野派」と呼ばれるグループの中心人物ですが、この狩野派は、戦国時代以前から、絵師として絶大な力を持ち、それは、江戸時代の終わりまで続いた。

まさに、日本を代表する絵師と言えるのでしょう。

そして、この狩野派の歴史の中でも、最も、名高いのが、この狩野永徳ということになる。

 

この「狩野派」は、多くの絵師を抱え、分業制で、絵を描いていたそうです。

そして、この「狩野派」には、強い組織力と、厳格な教育システムがあったということ。

狩野派の初代と二代の描いた「粉本」と呼ばれる手本が残っているそうで、弟子は、これを、徹底して模写し、その技術を学び、継承したそう。

 

また、絵を描くために使う墨、絵の具、紙などを、豊富に所有し、狩野派御用達の職人たちを抱え、絵を描く依頼があれば、この狩野派の組織だけで、全てを請け負うことが出来たそう。

そのため、城、寺社などの大量の障壁画などを、高品質で、手がけることが出来たそうです。

 

狩野永徳の作品として有名なのは、「洛中洛外図屏風」ですよね。

これは、将軍、足利義輝の依頼を受けて描かれたと言われている。

 

 

この「洛中洛外図屏風」は、足利義輝が、上杉謙信に送るために描かせたものですが、足利義輝が、殺害されたため、そのままになっていたのを、織田信長が手に入れ、上杉謙信に送ることになる。

そして、狩野永徳は、安土城の障壁画を任されることになるのですが、残念ながら、安土城は、焼失し、残っていない。

 

 

ちなみに、こちらの「唐獅子図屏風」も有名ですよね。

ネットで調べると、この「唐獅子図屏風」は、図屏風としては、規格外の大きさで、最初は、豊臣秀吉の大坂城、または、聚楽第の壁に貼り付けられていたという説が、有力だそうです。

室町幕府将軍、織田信長、豊臣秀吉と、まさに、権力者に重用された絵師。

 

もう一人、「長谷川等伯」について。

 

長谷川等伯は、能登国七尾の出身。

最初は、日蓮宗の絵仏師として、仏画や肖像画などを描いていたそうです。

30代で、京都に登り、千利休や、日蓮宗の僧、日通などに厚遇される。

 

51歳の時に、大徳寺山門の天井絵を描いたことで、名が知られるようになる。

その後、様々な仕事で名を挙げ、ついに、豊臣秀吉が造営する仙洞御所対屋の襖絵の依頼を受けたのですが、狩野派の妨害を受け、この仕事は、白紙となる。

ちなみに、狩野永徳が、48歳で、亡くなったのは、この出来事の直後のこと。

 

その翌年の天正19年(1591)、秀吉の子、鶴丸の菩提を弔うために建立された祥雲寺の障壁画を、長谷川等伯が、請け負うことになる。

ついに、長谷川等伯の名声は、狩野派を超えた。

 

松に秋草図。

 

楓図。

この二枚の絵が、祥雲寺の障壁画だったものだそうです。

 

 

この絵、長谷川等伯の「松林図屏風」です。

個人的に、これまで見た絵の中でも、最も、好きな絵の中の一つ。

 

 

 

 

この絵、非常に、不思議な印象ですよね。

描かないことによって、非常に、奥行きのある、不思議な空間を表現している。

ぜひ、実物を、見てみたいところ。

 

ちなみに、「雪舟」という絵師。

今でも、非常に高い評価を受け、超有名な絵師ですが、この雪舟が、これほど、高い名声を得ることになったのは、狩野派が、高く評価をしたからだと、以前、何かの本で読んだ記憶があります。

 

やはり、芸術というものは、誰か、権威のある人の評価を受けなければ、なかなか、世間から評価を得るのは難しい。

自分だけが、満足をしていても、駄目なんですよね。