さて、この本に、個人的に、関心を持っている話が、一つ。

 

 

土佐国の戦国大名、長宗我部元親。

 

長宗我部氏は、土佐国の一国衆だったものが、元親の代で、急速に、勢力を拡大。

次々と、周辺の国衆を滅ぼして行く訳ですが、その中に、土佐中村の一条氏も居た。

 

この「土佐一条氏」は、応仁2年(1468)、前の関白、一条教房が、自身の領地だった土佐国の幡多荘中村に下ったことで始る。

地方の豪族が、名門を詐称した訳ではなく、れっきとした、都の名門の一条家。

 

そして、この一条教房の次男、一条房家が、土佐一条家の初代。

ちなみに、30歳ほど年上という兄の一条政房は、単独で、摂津福原に下向。

福厳寺に身を隠していたのですが、「応仁の乱」の戦乱に巻き込まれ、殺害される。

 

この土佐国中村の一条家は、その名門の血統から、土佐国で、大きな力を持ち、土佐国の国衆たちからも、一目置かれる存在だった。

 

長宗我部氏は、長宗我部兼序の時代に、本山氏との戦いに敗れ、遺児、長宗我部国親は、この一条氏の保護を受けたと言われる。

そして、長宗我部国親は、一条氏の支援で、本拠地である岡豊城に復帰したと言われますが、これには、異説もあるそうですね。

個人的には、やはり、この話は、後の軍記物による創作だろうと思うところ。

 

土佐一条家は、この一条房家の時が、最盛期。

そして、一条房家が、天文8年(1539)に死去すると、嫡男の一条房冬が、家督を継ぐ。

一条房家、一条房冬、共に、土佐国に居ながら、高い官職を持っていた。

まさに、土佐国では、別格の家柄だった。

 

天文10年、一条房冬が亡くなり、嫡男、一条房基が、家督を継ぐ。

この一条房基は、積極的に、勢力の拡大に乗り出したようですが、天文18年(1549)、突然、亡くなったそうです。

自害とも、暗殺とも言われ、真相は、よく分からないよう。

 

そして、一条房冬の嫡男、一条兼定が、7歳で、家督を継ぐ。

しかし、この頃、土佐国では、長宗我部元親が、台頭。

更に、一条兼定は、重臣を手打ちにしたことをきっかけに、信望を失い、一条家は、混乱に陥る。

そのため、京都の一条家の当主、一条内基が、土佐国中村に下り、土佐一条家の混乱の収拾を図る。

ちなみに、この一条内基の土佐下向は、長宗我部元親も、関わっていたと思われる。

 

土佐一条家は、一条兼定を隠居させ、嫡男、一条内政に家督を継がせる。

これにもまた、長宗我部元親の関与があったと言われているよう。

そして、長宗我部元親は、この一条内政を、幡多郡の中村城から、長岡郡の大津城に移す。

そして、長宗我部元親は、一条内政に、自分の娘を嫁がせた。

 

この一条内政を頂点、傀儡として、長宗我部元親が、土佐国を支配した体制は「大津御所体制」と呼ばれます。

 

この「大津御所体制」は、天正9年(1581)、一条内政を追放したことで、崩壊する。

この「大津御所体制」の崩壊も、「本能寺の変」の一因になっているのでは、と、上の本に、書かれていました。

 

長宗我部元親が、一条内政を追放したことに関して、一条内基が、織田信長に讒言をしたそうです。

そして、織田信長は、四国政策を、転換したと言われているそう。

長宗我部元親は、それまで友好関係にあった織田信長に、敵視されることになる。

つまり、これが、「本能寺の変」の遠因になっているという話。

 

僕が、この「大津御所体制」のことを知ったのは、昔、刊行されていた雑誌「歴史読本」の記事に、このことを書かれているのを見た時。

記憶によれば、その記事には、「当時、長宗我部元親は、一条氏の家臣と、中央では認識をされていて、他の戦国大名とは、一段、低い扱いを受けていたようだ」と書かれていたと思います。

 

しかし、その後、何かの本を読んだ時に、「中央権力や、長宗我部元親自身が、一条氏に配慮をしている様子がないので、この『大津御所体制』というものは、存在していなかったのではないか」と書かれているものがあり、確かに、それは、そうなのかも知れないと思ったところ。

 

個人的な印象としては、やはり、名門の一条氏を、軽々しく、殺害、または、追放する訳には行かなかったのではないかと思うところ。

やはり、戦国時代も、身分というものは、とても、重いものだったのでしょう。

しかし、かといって、それは形式だけのもので、この「大津御所体制」というものが、機能していたとは、個人的には、思えない。

やはり、格好だけのものだったのではないですかね。