大河ドラマ「豊臣兄弟」の第22回を鑑賞。
前回のラストに登場した上月城の惨劇。
すでに、城内で、みんな死んでいて、それを、竹中半兵衛の策略で、晒したという展開。
しかし、過激な行動は、反発を呼ぶ。
別所長治が、三木城で、謀反。
更に、荒木村重の謀反で、今回は、終了。
播磨国で、次々と、謀反が勃発をしたのは、やはり、秀吉の責任でしょう。
これで、秀吉は、窮地に陥った訳ですが、何とか、この危機を乗り切ることになる。
しかし、上月城に入っていた尼子勝久、山中鹿之助を助けることが出来なかった。
これは、痛恨の極みと、言ったところか。
さて、この「尼子勝久」とは、何者なのか。
元々、尼子氏は、出雲国の守護代を、代々、務めていた。
この尼子氏が、一躍、勢力を強めるのは、尼子経久の時代。
この尼子経久については、何か、一冊、本を読みたいと、以前から思っているのですが、なかなか、適当な本が、見つからない。
ネットで調べて見ると、このような本があるようですね。
機会があれば、読んでみたい。
どうも、この尼子経久は、守護、京極氏を下剋上で倒したものと思っていたのですが、それは、違うようですね。
出雲国守護の京極氏は、自然衰退のような感じで、尼子経久は、事実上の国主となった。
そして、幕府からも、守護として認められることになる。
尼子経久は、次第に、勢力を拡大して行きますが、その中で、嫡男、政久が、戦死をしてしまう。
そして、家督は、嫡孫である尼子晴久が継ぐことになる訳ですが、この尼子晴久は、更に、勢力を拡大。
そして、毛利元就の吉田郡山城を包囲しますが、大内義隆の援軍もあり、敗北を喫する。
ここから、大内氏、尼子氏の二大勢力が、中国地方の覇権をかけて争うことになるのですが、まず、大内義隆が、陶晴賢の謀反によって滅亡。
更に、その陶晴賢を、毛利元就が、滅ぼす。
そして、尼子晴久は、49歳で、病死。嫡男、義久が、家督を継ぐが、毛利元就によって、滅ぼされる。
以上、極々、簡単な、尼子氏の歴史の流れですが、問題は、この尼子氏が、滅亡した後、どうなったのか。
永禄9年(1566)、尼子義久は、月山富田城を開城し、毛利氏に降伏をする。
この時、弟の倫久、秀久と共に、毛利氏の捕虜となり、安芸国長田の円明寺に幽閉され、大名としての尼子氏は、ここに、滅亡した。
その後、赦免されて、毛利氏の家臣となったそうです。
後に、佐々木と改姓し、幕末まで、客分として、優遇されたそう。
さて、問題の、尼子勝久について。
この尼子勝久は、尼子誠久の五男。
尼子誠久は、尼子国久の嫡男。
尼子国久は、尼子経久の次男となります。
尼子経久ー尼子国久ー尼子誠久ー尼子勝久と続く。
この尼子国久は、「新宮党」の党首で、尼子一族の中でも、大きな勢力を持っていた。
しかし、この新宮党は、尼子晴久によって滅ぼされる。
この時、尼子国久、誠久、共に、殺害された。
尼子勝久は、尼子誠久の五男で、新宮党が、粛正された時は、まだ、1歳。
粛正を逃れ、京都の東福寺で、僧となる。
尼子氏が滅亡した後、尼子氏の再興を目指して活動していたのが、山中鹿之助幸盛ら。
永禄11年(1568)、山中鹿之助は、東福寺で僧となっていた勝久を還俗させ、尼子氏の旧臣たちを集め、活動を開始。
永禄12年(1569)、毛利元就が、北九州に出陣した隙を突いて、挙兵をし、出雲国への侵攻を開始する。
ここから、尼子勝久、山中鹿之助を中心にした尼子氏再興軍は、出雲国、石見国で、毛利軍を相手に、奮戦を続けたようです。
しかし、北九州で、大友宗麟との戦いを中止し、中国地方に引き上げてきた毛利軍の反撃を受け、次第に、劣勢となる。
第一次再興運動、第二次再興運動に失敗。
そして、織田信長に支援を仰いだのは、第三次再興運動となる。
天正4年(1576)、この頃、尼子再興軍は、明智光秀軍と、行動を共にしていたようです。
天正5年(1577)、この頃、織田信忠軍と共に、戦闘。
そして、羽柴秀吉が、播磨国に侵攻を開始すると、羽柴軍と、行動を共にする。
こうやって、ネットで調べて見ると、山中鹿之助を中心にした尼子氏再興運動。
大変な苦労をしながら、戦い続け、それでも、主家の再興を目指すとは。
こういった人物は、珍しいのではないでしょうかね。
僕の知識の範囲内では、他に例が無いような気がする。
山中鹿之助は、なぜ、そこまで、尼子氏の再興に、人生を賭けたのでしょうね。
恐らく、山中鹿之助のような人物なら、どこの戦国大名でも、高禄で、召し抱えてくれたことでしょう。
上月城が、羽柴秀吉に援軍を受けることが出来ず、落城した後、捕虜となった山名鹿之助は、確か、今の岡山県高梁市の高梁川の河畔で、殺害されることになる。
尼子勝久は、上月城で、自害。
尼子氏の再興の夢は、ここで終わる。
