今日の新聞記事に、興味深いものが。
それは、羽柴秀吉による備中高松城の「水攻め」について。
これまで、この備中高松城の「水攻め」を、リアルタイムに伝える一次史料は、秀吉側のものしか、確認をされていなかったそうですね。
しかし、今回、この備中高松城の「水攻め」に対して、城の救援に来た毛利側の武将、吉川元春の書状が、発見されたということ。
この、吉川元春の書状の日付は、6月2日。
まさに、「本能寺の変」が、起こった当日に書かれたもの。
吉川元春は、書状の中で、
「救援に来たのだが、城は、水攻めにされていて、手も足も出せず、城兵の士気を上げることは出来ていない」
「これは、もはや、秀吉軍を相手に、決戦を挑むしかない」
と言ったことを、書いているようです。
羽柴秀吉の軍勢に囲まれ、水に沈む高松城を前にして、何ら、対策を打つことが出来ない毛利軍の、緊迫した状況を知ることが出来る。
秀吉が、「本能寺の変」を知ったのは、4日の未明の頃まで、と、考えられているようですね。
つまり、この時は、まだ、毛利軍は、もちろん、秀吉軍も、織田信長が、本能寺で、明智光秀に討たれたことを知らない。
ちなみに、この後、「本能寺の変」を知った、羽柴秀吉は、即座に、毛利と講和を結び、すぐに、東上を開始。
守備良く、明智光秀を討ったことから、「秀吉は、事前に、『本能寺の変』を、知っていたのではないか」という俗説がある。
しかし、この吉川元春の書状から、秀吉が、事前に、毛利方に、和睦の働きかけをしていた訳ではないということが分かり、この俗説は、否定されると、記事には、書かれていました。
なぜ、毛利軍は、秀吉軍を、追撃しなかったのか。
以前、読んだ本によると、毛利方は、上方の正確な情報を、なかなか、つかめなかったようですね。
そのため、動くに、動けなかったというのが、毛利方の状況だったようです。
また、秀吉軍が、スムーズに、東上することが出来たのは、織田信長の軍勢が、備中高松に向かうために準備していたものを、逆に、秀吉軍が、東上するのに使ったのではないかとも言われます。
これは、筋の通る話ですよね。
つまり、大軍が、移動をするための準備は、すでに、事前に、行われていたということになる。
ちなみに、少し前に、「秀吉は、実は、明智光秀軍を破った『山崎の戦い』が行われた時、現地に、居なかったのではないか」という新説が登場し、話題になった。
さて、真相は、どうなのか。
数年前には、この備中高松城の「水攻め」が行われる以前、備前国児島の常山城を攻めるための「陣立て」が記された羽柴秀吉の書状が、発見された。
この羽柴秀吉軍による「常山城」攻めは、「信長公記」には、記されているのですが、一次史料からは確認出来ないものだったので、疑問視されていたよう。
しかし、この一次史料によって、少なくとも、常山城を攻撃する予定があったということは、確認をされたことになる。
このように、今でも、新たな発見が、次々と。
だから、歴史は、面白い。
さて、この「書状」というものについて、この本に、興味深い話が。
この本、先日も書いた通り、戦国時代、井伊氏が治めた井伊谷という地域で行われた「徳政令」に関することが書かれている訳ですが、その一連の経緯の分かる、当時の「書状」が、祝田郷の神社に、残されている。
この神社に保存されている書状の中に、領主である井伊直虎に宛てた書状も、残っているそうです。
なぜ、井伊直虎に宛てた書状が、神社に、残されているのか。
実は、この時代、「書状」というものは、その「書状」を持つことで、利益のある人が、保管をする、と、言うものだったそうです。
つまり、この場合、恐らく、祝田郷の有力者だった神社の禰宜が、今川家側に、「徳政令」を実行してくれるように、申し入れていた。
そして、最終的に、領主である井伊直虎に、「徳政令」を実行するように、要請をする書状が出されることになるのですが、実は、この書状は、井伊直虎の元に届けられるものではないそうです。
この、井伊直虎に対して「徳政令を、実行して下さい」という書状は、井伊直虎の元にではなく、祝田郷の禰宜の元に、届けられることになる。
では、この井伊直虎宛ての書状を受け取った禰宜は、それを、どうするのか。
禰宜は、その書状を持って、井伊直虎の元に行き、その「徳政令を、実行して下さい」という書状を提示する。
それを、井伊直虎が、了承するのなら、その書状の写しを作り、書状は、禰宜の元に、返す。
それを、拒否するのなら、写しを作ることなく、書状を、禰宜に、突き返す、と、言うことになるそうです。
なかなか、面白い。
この話を読んで、思い出したこと。
「関ヶ原の戦い」で、当初、西軍として活躍をしながら、東軍と通じていて、最終的に、毛利輝元と徳川家康の和睦の仲介をすることになった吉川広家。
この吉川広家は、最初から、主君の毛利輝元が西軍として徳川家康に敵対をすることに反対していていたと言われている。
そして、東軍と内通していて、結果的に、毛利家を滅亡から救ったとも言われますが、実は、これは、江戸時代に創られた虚偽で、最初は、西軍として活躍していたものの、急遽、西軍の不利を感じて、東軍に寝返ったのではないかという話もある。
この吉川広家が、東軍と連絡を取り合っていた一連の書状が、吉川家の史料の中に残されているそうで、この東軍に内通している書状は、後に創られた偽の書状ではないかという考えもあるようです。
つまり、吉川広家が、毛利家を、滅亡から救ったという物語を、創り上げるためのもの。
その根拠として言われるのは、「相手に出したはずの書状が、なぜ、吉川家の手元に、残っているのか」という疑問。
この話を読んだ時、僕もまた「そうかも知れない」と思ったところ。
しかし、上の、井伊谷徳政の例を見ると、やはり、吉川広家の書状は、実際に、出された、本物で、間違いないのでしょう。
つまり、吉川広家が、東軍の武将に出した書状は、相手が、「内容を、了承をした」という印しに、写し取り、その書状は、使者が、また、吉川広家の元に、持って帰ったのでしょう。
そう考えれば、書状が、手元に残り、史料として吉川家に残っているのも、納得が行く。
中世の時代、書状とは、そういうものだったのでしょう。
