雑誌「歴史街道」の今月号。
2つ目の特集が「新選組、誕生前夜」ということで、読んで見たところ、新しい事実が、書かれていて、とても、興味深いところでした。
僕が、新選組に関心を持って、色々と、本を読んでいたのは、もう30年程も前のこと。
やはり、研究は、進んでいる。
さて、まずは、「山南敬助」について。
この「山南」という名字。
これは「やまなみ」と読むのが、一般的ですが、今回の記事には「さんなん」と、振り仮名がふってありました。
実は、30年前に、色々と読んだ本の中にも、「これは、『やまなみ』ではなく、『さんなん』と読むのではないか」という説があり、確か「三南」と書かれた書状もあるという話だったと記憶しています。
やはり、「三南」と書かれた書状が残っている以上、これは、「さんなん」が正しいのではないか、と、僕は、当時から思っていましたが、今では、どうなのでしょう。
やはり、「さんなん」と読んでいるのは、記事の著者の主張で、一般的には、「やまなみ」ということになるのでしょうか。
ちなみに、「沖田総司」の名前「総司」について。
これは、やはり、30年前にも、「そうじ」と読む人、「そうし」と読む人が居たようで、どちらが正しいのかという話がありました。
最も、当時から、一般的には「そうじ」が主流で、書状の中にも「沖田総二」と書かれたものが残っているはず。
こちらは、問題のないところでしょう。
また、最近、「浪士姓名簿」というものが、発見されたそうですね。
この「浪士姓名簿」」について、詳しいことは、記事の中には、書かれていませんが、どうも、記事の内容からすると、江戸で浪士組に参加をした人たちの姓名と、当時の住居のある場所が、記録をされているようです。
山南敬助は、当時、小谷陽之助という人物の土地に、間借りをして住んでいたようです。
この小谷陽之助は、近藤勇と親しい人物で、試衛館のある市ヶ谷柳町の隣、二十騎町に住んでいたそうです。
つまり、山南敬助は、そこから、試衛館に通っていた。
近藤勇は、当時、牛込加賀屋敷の山川磯太郎の土地に、一軒、家を持っていたことが、最近、分かったそうです。
沖田総司は、当時、この牛込加賀屋敷の近藤勇の家に同居をしていた。
また、永倉新八も、この近藤勇の家に同居。
藤堂平助も、この近藤勇の家で、同居。
仲間たちが、近藤勇の家で、和気あいあいと、剣術の腕を磨きながら、日常を送っていたことを想像すると、面白い。
さて、この「藤堂平助」について。
名字の「藤堂」から、伊勢の津藩、藤堂家の御落胤という説があった。
しかし、これは、どうも、信じがたいと、僕自身、思っていたところ。
そして、最近、「維新階梯雑誌」という史料の中に、「平之丞妾腹惣領ノ由」と書かれているのが見つかったそう。
この「平ノ丞」とは、5千石の旗本「藤堂平ノ丞」のことと推定される。
果たして、この記事が、正しいものかどうかは、まだ、確定していないようです。
また、「原田左之助」について。
この原田左之助については、「浪士姓名簿」の中に「伊予松山浪人」とあるだけで、居住地が、記されていないそうです。
通説では、原田左之助もまた、近藤勇の食客だったと言われていますが、そうではない可能性が高い。
また、「斉藤一」について。
この「斉藤一」という人物は、30年前には、謎の多い人物と言われ、経歴が、よく分かっていなかったはず。
江戸で、近藤勇らと親しくしていたようですが、浪士組に参加をしたのは、江戸ではなく、京都だった。
これは、なぜなのか。
30年前には、謎の一つだった。
記事によれば、どうも、江戸で、旗本を斬る事件を起し、江戸から、逃亡をして、京都に居たようです。
そして、浪士隊が、上洛し、そこで、近藤勇らと再会した、と、言うことになるようです。
意外なことは、「土方歳三」「井上源三郎」の二人は、試衛館には、居なかったということ。
土方歳三は、多摩の石田村の実家で生活をしながら、日野宿の名主、佐藤家の道場で、出稽古に来た近藤勇と知り合い、天然理心流を学んだそう。
井上源三郎もまた、日野宿で生活をし、天然理心流を学んでいた。
これらを見ていると、やはり、近藤勇とは、人望のある人だったようですね。
しかし、江戸で、浪士隊の募集に参加をしたことから、激動の時代の中に、飲み込まれて行くことになる。
ちなみに、岡山県高梁市にある備中松山城の猫城主「さんじゅうろー」ですが、これは、備中松山藩出身の新選組隊士「谷三十郎」から取ったものでしょう。
さんじゅーろー。
ローカルニュースでは、度々、登場する人気猫です。
一度、見に行きたい。

