大河ドラマ「豊臣兄弟」の第19回を鑑賞。
今回は、小一郎の正室、「慶」の話が、メインでしたね。
さて、慶の過去が、明らかになった訳ですが、慶には、与一郎という子共が居た。
この与一郎は、先の夫との間の子共で、夫の両親に養育をされていたということになる。
慶は、このことを、小一郎には、秘密にしていた訳で、全てを知った小一郎は、慶の元夫の両親を説得し、与一郎を、自分の子供として迎えることにする。
そして、慶もまた、小一郎に、心を開くことに。
もちろん、この経緯は、全てがフィクションですが、ネットの記事などを見ていると、視聴には、好意的に、受け止められたようですね。
脚本家の、腕の見せ所、と、言ったところでしょうか。
史実としては、そもそも、秀長の正室「慈雲院」が、どこの、誰なのか、全く、分かっていない。
しかし、秀長の嫡男、与一郎は、秀長と慈雲院との間の実子と考えられているようです。
与一郎は、天正10年(1582)頃には、亡くなったと考えられるよう。
早くに、亡くなってしまい、秀長から、家督を継ぐことは無かった。
実際に、秀長の家督を継ぐことになるのは、養子の秀保で、これは、豊臣秀次の弟。
実は、この秀保の家督相続は、秀長の病気により、かなり、急だったようですね。
秀長が、病に倒れる中で、13歳の秀保と、まだ、4から5歳程度と思われる秀長の次女と、祝言をして、跡継ぎとなる。
さて、今回もまた、歴史的経緯は、軽く、飛ばされていましたが、羽柴秀吉が、柴田勝家と対立し、勝手に、軍を引き上げて帰って来たという話は、ドラマの中に、登場しましたね。
これは、「手取川の戦い」に関する話。
この「手取川の戦い」に関しては、以前も、このブログに書いたところ。
この「手取川の戦い」があったのは、天正5年(1577)のこと。
簡単な経緯を説明しますと、武田信玄の死後、上杉謙信は、いよいよ、越後国から、西に向かって、勢力の拡大を始めた。
越中国、加賀国、そして、能登国へと侵攻する。
能登の国主、畠山氏は、堅城である七尾城に立て籠もり、上杉謙信に対抗した。
一方、織田信長は、七尾城に籠る畠山氏からの援軍要請を受け、柴田勝家を大将にした大軍を、能登に向けて派遣する。
しかし、柴田勝家が率いる織田軍の援軍は、間に合わず、七尾城は、落城。
七尾城の落城を知った柴田勝家は、撤退を決意しますが、そこに、上杉軍が追撃をし、大勝利を挙げたというもの。
さて、以上、「手取川の戦い」の通説ですが、例によって、戦国時代の合戦の様相というものは、同時代史料からは、具体的には、どのような合戦が行われたのかは、よく分からない。
ここで、問題になるのは、羽柴秀吉が、独断で、軍勢を引き上げたということ。
これも、確かな史料からは、何時、どのような理由で、羽柴秀吉が、独断で、軍勢を引き上げたのか、よく分からない。
柴田勝家との意見の対立という話は、後世の創作です。
個人的な想像では、織田信長から、決定的な処罰を受けていないということは、秀吉の弁明にも、一理ある、と、織田信長は、判断したのかとも思うところです。
それとも、これまでの功績に免じて、と、信長は、判断をしたのでしょうかね。
もう一つ。
織田家の家督が、嫡男、信忠に譲られるシーンがありましたね。
この織田信忠という人物が、どのような人なのか、勉強不足なので、よく知らない。
しかし、本能寺の変が起きた時に、京都から脱出することなく、二条城で、明智軍を相手に闘うという判断をしたのは、誤りだったのではないかと思うところ。
もし、いち早く、京都を脱出し、安土、または、岐阜に戻っていれば、羽柴秀吉の、その後の台頭は、無かったかも。