今、図書館で、この本を読んでいるところ。

 

 

 

戦国時代の村と農民。

 

恐らく、時代劇などで描かれる、村、農民のイメージは、正しいものではない。

 

一般的な、戦国時代の村の農民のイメージは、武士階級や、悪者に虐げられ、村が襲われれば逃げ惑い、無惨に、殺害される。

今の大河ドラマ「豊臣兄弟」でも、そのように描かれていた。

しかし、このイメージは、間違いのようです。

上の本の内容から。

 

まず、戦国時代当時、村に住む農民は、武装集団でもありました。

村には、刀、槍などの武器が、豊富に蓄えられていた。

そして、村に危険が近づいて来るとなると、農民は、武器を持って、敵と闘った。

これは、当時、当たり前だった「自力救済」の考えから来るもの。

 

村の近くの山には、農民の作った城があり、村の戦闘員である男たちは、武器を持って、その城に立て籠もることになる。

非戦闘員である女、子共、老人は、山の中に作られた、簡素な小屋の中に、財産や身を隠して、危険を回避していた。

現在、日本各地の山々で、小さな城が、数多く、発見されていて、それを、土地の領主の城の連携を示すと考えられる場合が多いようですが、恐らく、それは間違いで、里山などに数多く見られる小規模な城は、地元の農民が、自らの防衛のために築いたものと思われる。

 

もちろん、戦国大名の正規軍を相手にして、農民が、戦闘をして、勝てる訳もない。

そういう時には、農民は、自らの城に入るのと共に、領主の城にも入り、難を逃れることになる。

そのため、領主の城の管理、整備も、地元の農民たちが、関わっていた。

もちろん、それは、無償ではなく、何らかの報酬がありました。

 

そして、戦国大名、領主は、自身の領内の村に、強制的な管理が及んでいた訳ではありません。

彼らが、村、農民に指示を出す時には、基本的に、強制的な命令ではなく、「お願い」という形式を取っていたようです。

つまり、戦国大名にしろ、国衆にしろ、自身の領内の、村の農民を、強制的に、命令に従わせることは出来なかったよう。

村は、村として、半分、独立をしていたということになる。

 

もちろん、「命令に従わない場合は、首をはねる」という厳しい態度を示すこともあったようですが、それでも、村の農民たちは、素直に、領主に従う訳ではなかったよう。

それだけ、農民は、武士階級、領主権力からは、独立をした存在だったということになる。

 

しかし、戦国大名同士の合戦が、近くで起こるとなると、敵の戦国大名の軍勢の兵士が、村になだれ込むことになる。

さすがに、これは、村の武力だけでは、対処をすることが出来ない。

この時、村は、敵側から「乱暴狼藉を禁じる」という制札を、大金を払って、買うことになる。

 

しかし、この「乱暴狼藉を禁じる」という制札を貰ったからといって、敵の戦国大名が、村を守ってくれる訳ではありません。

農民たちが、この制札を貰うことによって、村に乱暴狼藉を働きに来た、敵の戦国大名の兵士を殺害しても、それは、敵対行為ではなく、正当防衛として認められることになる。

つまり、村の自力救済が、敵の戦国大名から、認められたということ。

そして、村の武力では、どうにもならない時には、その戦国大名側に訴え、処分をしてもらうことが出来るというもの。

 

また、戦国大名が合戦をした後、負けた側に対する「落ち武者狩り」を、農民に依頼することもあったようです。

もっとも、この「落ち武者狩り」は、農民にとって、自分たちが、武士たちに対して乱暴狼藉を働く絶好の機会でもあったでしょう。

 

また、戦国大名が、自身の領内の村々に、どのような武器があり、どのような男が居るのかという調査をすることもあった。

これは、いざ、合戦という時に、徴兵の対象にするためですが、どうも、強制的に、村の男たちを召集するという訳ではく、例えば、「村から二人、男を出してくれ」と、お願いをしていたようです。

当然、村の農民たちは、素直に、その命令に従う訳ではない。

村の働き手を、合戦に取られることは、村にとっても打撃となる訳で、その辺りには、戦国大名を相手に、駆け引きもあったようです。

 

実は、この戦国時代、農民も、一般的に、刀を腰に差していたようです。

武士、農民の区別なく、「腰に、刀を差す」というのは、自分が、成人になったということを世間に示す役割があったよう。

その後、豊臣秀吉などによって行われた「刀狩り」は、この、農民から「刀」を取り上げて、武士と農民の身分の別を明確にするために行われたもので、「武器」を取り上げる、つまり、「武装解除」を行うのが目的ではなかったというのが、有力な説です。

 

ちなみに、江戸時代にも、害獣などに対処をするため、と、言う名目で、村は、鉄砲などの武器を所有していた。

そして、明治時代に入ると「廃刀令」と言って、武士もまた、刀を腰に差すことを禁止された訳ですが、実は、刀を所有すること自体は、禁止をされていなかったそうです。

つまり、日本社会の中には、相変わらず、多くの武器が、蔓延していた。

この日本社会に残る多くの武器を、徹底して回収したのは、第二次世界大戦後、日本を統治したGHQの命令で行われたもの。

つまり、今、日本人が、武器を持たない、安全な社会となったのは、第二次世界大戦後から、と、言うことになる。

 

 

ちなみに、戦国大名が、合戦を行う時、「兵糧」というものは、「手弁当」、つまり、「兵士の自前」だったというのが、通説となっています。

しかし、当時の史料を読むと、この兵糧は、領主側、戦国大名側が、用意をするのが、当たり前だった。

農民に、領主の城に入ることを要請する時にも、「兵糧は、こちらで用意をする」と書かれている。

そして、それは、戦国大名の正規軍の兵士たちも、同じ状況だったよう。

 

そして、兵糧が足りない場合、金銭が、兵士たちに支給されたそうです。

これは、その金銭を使って、現地で、自分の食料を、自分で調達しろという意味。

実際に、戦国大名が合戦のために陣を置いた場所の周辺には、多くの商人が集まり、様々なものを売る市が立てられたそうです。

商人たちは、戦場に集まって、大もうけをしていた。

 

しかし、この兵糧の支給は、末端の雑兵たちには、届かない場合も多かった。

当時の雑兵の書き残した史料を見ると、「合戦に出る」ということは、「飢餓」との戦いでもあったようです。

そして、自分が身に付けている鎧や、武器などを売って、その金で、食料を買うこともあり、結局、裸で、戦場に出るということも多かったそう。

そして、食糧を求めて、周辺の村に入り込み、乱暴狼藉を働く兵士も多かった。

農民たちは、それに対して、財産を持って、山の中に隠れたり、自前の城に入って、闘うことになる。

 

戦国時代は、慢性的な「飢饉の時代」とも言われています。

不作で、作物が取れない時、農民たちは、どうしたのか。

それは、山の中に入り、自然に生えている山菜などを採って、飢えを凌いでいたそうです。

当然、餓死者も出る。

飢饉に襲われたのは、戦国時代だけではなく、日本の長い歴史の中では、何度も、飢饉に、社会が見舞われた訳で、その時には、やはり、自然の中に存在するものに頼らなければならなかった。

そのため、山などは、地域の共有財産として、独占することが禁止されていたそうです。

 

また、当然、村同士が、利害対立で、闘うこともあった。

武器を持っての戦闘は、激しいものになったでしょう。

また、周囲の村で、協力をして、敵に当たるシステムもあったようで、協力をして、迫る敵に対処をしていた。

また、領主側に、理不尽なことをされたら、村の農民が、仕返しをするというケースもあったよう。

決して、村、農民は、無力だった訳ではない。

 

戦国時代、村の農民たちもまた、たくましく、生きていた。

決して、虐げられていただけでは、ありません。