昨日のニュースで、今、「お茶」の値段が、急騰しているという話をしていました。

お茶には、あまり、関心が無いので、全然、知らなかった。

値段が、高騰している理由として、まず、

「後継者不足により、お茶を作る人、つまり、生産者が、急速に、減少している」

ということ。もう一つは、

「今、海外で、お茶が大ブームだそうで、日本から、海外へ、お茶の輸出が、急増している」

ということ。

これらに加えて、もちろん、コストの高騰も、一因でしょう。

 

生産量が減り、需要が増えれば、当然、値段が、上昇する。

個人的な疑問は、何で、海外で、お茶が、大ブームになっているのか。

お茶の中でも、特に、抹茶が、ブームだそうですね。

外国人が、あれを飲んで、美味しいのでしょうか。

 

もちろん、美味しいから、外国人に、好まれているのでしょう。

個人的には、抹茶のアイスなど、好きですが、抹茶を飲むという経験は、ほぼ、無い気がする。

 

日本で、お茶を広めたのは、鎌倉時代の禅僧、栄西と言われていますよね。

そもそも、禅宗と、お茶は、重要な関係にあり、

「まあ、お茶を、一杯」

と言う、有名な逸話もあります。

栄西は、中国に渡った時に、この、お茶を、持ち帰った。

ネットで、経緯を調べてみる。

 

帰国をした栄西は、九州北部の背振山(今の佐賀県)に、お茶の種を植えたそう。

その後、京都の建仁寺でも、茶園が、設けられる。

栄西は、明恵上人にも、お茶の種を渡します。

明恵上人は、梶尾(今の右京区高山寺)に、お茶の種を植える。

この梶尾産のお茶は「本茶」と呼ばれ、他の産地の茶は「非茶」と呼ばれたそう。

明恵上人は、後に、宇治でもお茶の栽培を始め、これが、宇治茶となって行く。

 

実は、この「お茶」というもの、そして、「お茶を飲む」という習慣は、平安時代、すでに、遣唐使によって、日本に伝えられていたそうですね。

しかし、栄西が、お茶の祖となっているのは、これは、廃れてしまっていたということなのでしょうかね。

 

さて、鎌倉時代の末期から、室町時代にかけて「闘茶」というものが流行したそうです。

この「闘茶」は、飲んだお茶が、「本茶」か「非茶」かを当てたり、飲んだお茶の産地を当てて楽しむもの。

ただ、楽しむだけではなく、当然、お金のかかった賭博です。

 

この辺りまでは、何となく、理解をすることが出来る訳ですが、個人的に、大きな疑問は、なぜ「茶道」が生まれたのか。

 

なぜ、「お茶を飲む」という行為が、「芸術」、そして、「伝統芸能」のように進化をしたのか。

よく考えると、とても不思議ですよね。

もちろん「千利休」という人物の存在が、とても大きい、と、言うことになるのでしょうが、もちろん、千利休が登場するまでに、その下地は、十分に、あったはず。

 

例えば、「ラーメンを食べる」という行為が、今後、茶道のように、芸術、伝統芸能のように、進化をしたりしないものでしょうかね。

ラーメンのお椀が、芸術的な物として、高額で取引をされたり。

また、茶室のような「ラーメン室」が作られ、その中で、厳粛な作法に従って、ラーメンを食べるとか。

考えてみると、面白い。

 

さて、お茶の産地として有名な土地の一つが、静岡県。

なぜ、静岡県で、お茶の栽培が盛んになったのかと言えば、明治時代、徳川家家臣の経済を支えるため。

 

最後の将軍、徳川慶喜が、大政奉還をし、幕府は消滅。

徳川家は、一大名となった。

そして、徳川家を代表して、新政府との交渉を任された勝海舟は、江戸城を明け渡し、徳川家は、静岡に移ることになる。

 

徳川家は、静岡藩として、再出発をする訳ですが、多くの旧幕臣が、これに従って、静岡に移住した。

当然、彼らを養うだけの力は、徳川家には無いので、これら、静岡に移住して来た、旧幕臣たちの生活を、どうするのか。

そこで、考えられたのが、土地を開拓し、お茶を栽培すること。

これは、勝海舟の行ったことと言われますが、これを、勝海舟に進言したのは、山岡鉄舟です。

その経緯が、この本に、書かれていました。

 

 

さて、少し、余談。

 

徳川家の代表として、新政府との交渉に当たった勝海舟ですが、徳川家が、静岡に移ると、勝海舟は、徳川家の総務部長のような役割を任されていたと、この本に書かれていました。

 

 

そして、勝海舟は、徳川家と新政府との交渉の窓口となる。

 

明治新政府が設立されたといっても、世界情勢に詳しく、日本全国を取り仕切る実務を行える人材が、新政府の中に、それほど、多く、居た訳ではない。

そこで、新政府は、旧幕臣を、新政府の官僚として、静岡藩徳川家から、引き抜くことになる訳ですが、その仲介にも、勝海舟が関わっていたそう。

静岡藩で設立された「沼津兵学校」には、旧幕臣の優れた人材が多く、ここからも、多くが、新政府に移ったそう。

 

勝海舟の元には、経済的に困窮した旧幕臣が、金の無心に訪ねて来ることも多かったようで、勝海舟は、彼らに、お金を渡していたそう。

もっとも、明治に入り、多くの武士が、旧幕臣に限らず、困窮した立場に置かれた訳で、大変な状況だったのでしょう。

 

もっとも、徳川家家臣として、新政府のために仕事をすることを潔しとしない人も居た。

高橋泥舟、大久保一翁など。

人の生き方は、様々です。