さて、この本から、一次史料のみに情報を限ると、豊臣秀吉の死から、「関ヶ原の戦い」までの経緯が、どうなるのかを、見て来たところ。

 

 

今回は、個人的な考察も交えながら、その経緯をまとめてみようと思います。

 

まず、豊臣秀吉が、亡くなる。

かつては、「五大老五奉行」の制度があり、彼らが、合議で、政治を行っていたと言われていましたが、そもそも、このような制度は、存在をしなかったというのが、現在の説のようです。

しかし、それに類似する人たちは、確かに、存在をしていた。

それが、大老に当たる、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝。

そして、奉行に当たるのが、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政、石田三成。

 

しかし、彼らは、「合議」をして、政治を行っていた訳ではなかった。

豊臣秀頼の後見人として、実質的に、天下の政治を行っていたのは、徳川家康。

そして、他の四人の大老は、徳川家康の政治を監視する「目付」のような役割にあったのでしょう。

 

前田利家が生きている間は、この「目付」の役割も、機能していた。

徳川家康の勝手な行動を、前田利家が中心となって諫め、徳川家康が謝罪をするという事態も、実際、起こっている。

しかし、前田利家が亡くなると、その実力、実績で、徳川家康に対抗出来る人物が、政権の中に居なくなってしまった。

そして、徳川家康は、次第に、邪魔者を排除、または、支配下に置いて行く。

 

まずは、前田利家が亡くなった直後、石田三成が、失脚する。

これは、徳川家康の行為というよりも、豊臣政権の内部対立の結果、と、言うことになるのでしょう。

 

次ぎに、前田利家の後を継いだ、前田利長、そして、奉行の浅野長政が、徳川家康の暗殺計画に関与したという嫌疑を受ける。

これは、恐らく、でっち上げでしょう。

これで、浅野長政が失脚し、前田利長は、徳川家康に人質を差し出し、屈服する。

 

そして、上杉景勝が、討伐をうけることになる。

徳川家康、自らが出陣をすることには、多くが反対をし、引き留めたものの、徳川家康は、自分の行動を変えなかった。

 

恐らく、毛利輝元や、奉行衆(増田長盛、前田玄以、長束正家)は、こういった徳川家康の行動に、不満と、危機感を持っていたと思われる。

特に、毛利輝元は、上杉景勝が滅びれば、次ぎは、自分かも知れないという意識を持っていたのではないでしょうかね。

そして、奉行衆は、徳川家康が、このまま、次第に、豊臣秀頼を蔑ろにし、豊臣家の「天下」を、奪われると考えたのかも知れない。

 

そこで、毛利輝元と、奉行衆が手を組み、徳川家康を、豊臣政権から排除するための挙兵の決意をした。

と、言うのが、西軍挙兵の動機でしょう。

つまり、西軍の挙兵は、徳川家康を政権から排除するための「クーデター」ということになる。

 

実は、この西軍の挙兵が「クーデター」であったというのは、後の経緯に、大きな影響を与えたと思われます。

これは、つまり、軍事行動の正当性が、どちらにあるのか、と、言うこと。

奉行衆は、徳川家康の非を宣伝する書状を諸大名に送り、自分たちの正当性を、訴えます。

そして、西日本の多くの大名が、西軍に取り込まれることになる。

 

しかし、徳川家康の正当性を信じる大名も、多く、存在しました。

彼らは、東軍として、活躍をする。

恐らく、当時、日本の大名たちには、徳川家康に正当性を感じる者が、多かったのではないでしょうか。

そのため、徳川家康の東軍の諸将は、一丸となり、戦意も高かった。

 

一方、西軍の諸将は、まとまりを欠き、戦意の低い者が多かった。

それは、奉行衆の宣伝を、最初は、信じて、西軍についたものの、やはり、東軍につくべきではなかったかと考える者が、多かった、と、言うことになるのでしょう。

実際に、当初は、西軍の一員として行動を始めたものの、後に、東軍に転じる者が出て来る。

 

さて、当初、徳川家康は「石田三成と大谷吉継が、不審な行動をしている」という情報を得た。

これは、西軍の首謀者であるはずの増田長盛の書状や、会津征伐に向かうための毛利軍を率いていた毛利輝元の家臣からの書状による。

恐らく、増田長盛は、西軍挙兵に関わったものの、もしかすると、徳川家康が勝つ可能性も考え、二股を掛けようとしていたのかも知れない。

また、毛利輝元は、戦国時代を、実力で生き抜いたという訳ではなく、家臣に対してのカリスマ性を欠き、統率力に疑問があったのではないでしょうかね。

そのため、毛利家臣団は、まとまりを欠いていた。

 

徳川家康は、当初、西軍の挙兵を「石田三成、大谷吉継による、小規模なもの」と認識をしていたようで、福島正則、黒田長政ら、一部の武将を、その対処のために、会津征伐から外し、東に向かわせたものの、会津征伐は、続行するつもりだった。

しかし、すぐに、西軍挙兵が、かなり大規模なものであると知り、会津征伐を中止し、自ら、東に戻ることに決める。

 

西軍は、東軍に対処をするため、大垣城まで進出する。

しかし、福島正則、黒田長政らが、岐阜城を、あっけなく、落としてしまった。

岐阜城が、あっけなく落ちたのは、人が集まらなかったため。

つまり、西軍ではなく、東軍に、正当性があると考える人物が、多かったということ。

 

大垣城の西軍と、美濃赤坂の東軍の先手衆とが、にらみ合いになる。

これは、徳川家康が、「自身が到着するまで、攻撃は控えろ」と命令をしていたため。

恐らく、徳川家康は、西軍を、大垣城に釘付けにして、交渉をしようとしていたのではないかと思われる。

無駄な合戦は、避けたいと考えていたのではないかと想像をするところ。

 

また、この時、徳川秀忠が、徳川家の譜代衆を率いて、東山道を進んでいた。

これは、近年、「信濃方面を制圧する役割があった」とか「徳川家康が、西軍との緒戦で敗れた時の、二段構えにしていたのでは」とか、言われたりしていますが、恐らく、これは、正しくない。

個人的な想像では、徳川秀忠軍が、東海道ではなく、東山道を進んだのは、兵糧を確保するためだったのでしょう。

東海道の兵糧は、すでに、東軍の先手衆が、使用をしていたはず。

更に、徳川家康の本体も、東海道を進むので、兵糧に余裕がない。

そのため、徳川秀忠軍は、東山道を進むことにしたのではないでしょうかね。

 

徳川家康は、この徳川秀忠軍の到着を待ち、大垣周辺で、西軍と交渉、または、決戦をするつもりだったのでしょう。

 

一方、西軍は、大垣城で、孤立をした。

大垣から、近江に抜ける道は、東軍が押さえ、大垣城の西軍は、大坂と連絡が取れない状況。

更に、兵糧も少なく、援軍も来ない。

 

実は、この大垣城と、その周辺、更に、南宮山に布陣をしていた西軍の指揮を取っていたのは、大垣城に居た石田三成ではなく、

南宮山に居た、長束正家と安国寺恵瓊だった。

しかし、この長束正家と安国寺恵瓊は、軍事に疎く、何事にも、消極的で、西軍の諸将は、不満を募らせていた。

大垣城に集まっていた石田三成らは、長束正家、安国寺恵瓊に意見をするが、取り上げてもらえない。

 

そこに、小早川秀秋が、西軍から、東軍に寝返ったという情報が入り、東軍の士気は上がり、西軍の士気は下がる。

更に、徳川家康が、赤坂に到着。

大垣城の西軍は、これから、どう行動するのか、悩んだことでしょう。

 

そこに、東軍の小早川秀秋が、松尾山に入った。

これは、大垣城の西軍にとっては、決定的な出来事で、いよいよ、大垣城の西軍は、包囲され、孤立することになる。

 

ここで、恐らく、大垣城の西軍の諸将は、長束正家、安国寺恵瓊の判断を仰ぐことなく、松尾山の小早川秀秋を攻撃。

そして、そのまま、近江方面に撤退をすることに決めたのでしょう。

そして、石田三成らは、大垣城を出て、西に向かう。

 

大垣城の西軍が、城を出たことを知った徳川家康は、先手衆に、西軍を追わせた。

これは、松尾山の小早川秀秋を援護するためだったのでしょう。

そして、石田三成ら西軍は、松尾山の小早川秀秋を攻撃する中、背後から、東軍の先手衆の攻撃を受けて、壊滅。

 

以上が「関ヶ原の戦い」の経緯ではないでしょうか。

 

この時、徳川家康は、あくまでも、「豊臣政権」のトップとして、行動をしたということになる。

つまり、「関ヶ原の戦い」は、「天下分け目」の戦いではなく、「豊臣政権を揺るがす、クーデターの鎮圧」だったということ。

 

そのため、「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康は、豊臣政権を代表して、クーデターの首謀者を処分したということになる。

 

それは、「関ヶ原の戦い」で、実際に、戦場に居た、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、長束正家。

なぜか、大坂の増田長盛、前田玄以は、処分を免れた。

 

恐らく、この「関ヶ原の戦い」のイメージが、世間に定着をするということは、なかなか、無いでしょう。

すでに、定着をしてしまった歴史のイメージを覆すことは、難しい。