さて、更に、西田幾多郎の本から「純粋経験」について。

 

 

この「純粋経験」とは、「主観」と「客観」が分離をする以前、そのままの状態のこと。

 

例えば、人が、花を目にした瞬間。

その瞬間には、主観も客観もなく、事実が、そこに存在をするだけ。

そして、そこから、意識の中で、主観と客観が、分離して行く訳で、人は、花を認識する。

そこから、世界は、形成をされて行くことになる。

 

しかし、西田幾多郎の思想の中では、純粋経験は、このような「一瞬」の出来事に限るという訳ではい。

その例として挙げられているのが、芸術家と、その作品の関係。

 

天才芸術家が、作品を創り出す時、そこには、「主観」も「客観」も無い。

つまり、天才芸術家が、作品を創造している間は、どれだけ、時間が経過をしようが、それは「純粋経験」であるということが出来る。

もっとも、僕は、天才芸術家ではない訳で、天才芸術家が、作品の製作に没頭している時、どのような精神状態にあるのかは、分からない。

しかし、恐らく、天才芸術家は、その作品の製作に没頭し、周囲の出来事にも、時間の経過にも関心はなく、ただ、その作品の製作に集中をしているものと思われる。

つまり、自分という「主観」も、作品という「客観」もなく、それらが、一つになった状態を維持している。

それは、「純粋経験」と言える。

 

そして、この「純粋経験」は、更に、大きな「統一」に向かう訳で、それは、以前にも書いた話で、ここでは、省きます。

 

さて、この「芸術家」と「作品」の関係について。

上の本を読んだ後に、色々と考えていたところ、ある疑問にたどり着く。

なぜ、その芸術家の作品が、評価をされるのか。

 

それは、まず「個性的」だから、と、言うことになるのでしょう。

 

この「個性的」という意味は、「誰にも、真似の出来ない、独得なもの」という意味ですよね。

つまり、その芸術家の作品は、他の誰のものとも違う、特別なもの。

 

しかし、その芸術家の作品が、世間から評価を受けるためには、広く、多くの人たちの共感を得なければならない。

つまり、多くの人たちが、その作品に、共通の感情を持っている、と、言うことになる。

 

これって、よく考えると、不思議なことではないですかね。

 

「独得で、特別なもの」が、「広く、多くの人たちの共感」を得る。

 

これって、何だか、矛盾ですよね。

 

しかし、恐らく、この「矛盾」を「同一のもの」にすることが、まさに、天才芸術家の仕事、と、言うことになるのでしょう。

 

実は、この「矛盾」の「一致」というのも、西田幾多郎の本を読んでいると、度々、登場をする話。

 

しかし、今のところ、まだ、よく理解をすることが出来ないところです。