少し前に、個人的に、ネットの記事を見て、驚いた話が。
それは、戦国大名、長宗我部元親で有名な「長宗我部家」が、断絶したというもの。
長宗我部家の当主だったのは、長宗我部友親さんです。
2025年10月11日に、亡くなる。
83才だったということ。
長宗我部友親さんには、実子も、養子も無く、長宗我部家についても、何の遺言も無く、亡くなったそうで、ここに、長宗我部家は、断絶した。
長宗我部友親さんは、生前に、エッセイのようなものを出版されているそうで、そのタイトルが「絶家を思う」というもの。
ネットの記事によると、長宗我部友親さんは、この本の中で、「今の時代、家を残すことにこだわることもないだろう」という意味のことを書かれているそうです。
その通り、自分の代で、長宗我部家を終えることにした、と、言うことになるのでしょう。
実は、長宗我部家は、長宗我部元親の子、長宗我部盛親が、「大坂の陣」に、大坂方として参戦。
落城の時に、城を脱出し、逃亡しますが、その後、発見、捕縛され、処刑されます。
長宗我部盛親は、処刑された時、41才だったということで、子供も居たものと思われますが、確かな史料からは、定かではないよう。
長宗我部元親の直系子孫は、ここに、公には、途絶えたということになる。
長宗我部友親さんは、この長宗我部元親の弟、長宗我部親益の子孫になります。
親益から数えて、17代目になるそうです。
長宗我部親益は、長宗我部国親の四男。
国親が、家臣の島という人物の妻に手を出して、生ませた子と言われているよう。
元亀2年(1517)、病気療養のため、播磨の有馬温泉に向かう途中、阿波国に船で停泊をしたところ、海部城の海部友光に、敵と間違われて、殺害される。
この事件をきっかけに、長宗我部元親は、阿波国に侵攻し、海部城を攻略します。
この長宗我部親益の孫に当たると思われる長宗我部親典という人物が、「大坂の陣」では、長宗我部盛親と友に、大坂城に入り、盛親軍の一員として戦いますが、落城時、大坂城を脱出。
親典は、盛親と行動を共にすることなく、土佐に向かいます。
親典は、土佐で、山内家に、自分が、長宗我部一族であること、大坂の陣で、大坂方として戦ったことを申し出、一時、牢に入れられますが、その後、赦免され、山内家に、下士として、仕えることになります。
やはり、江戸時代は、「長宗我部」を名乗ることが出来ず、「島」という名字を名乗って、代々、山内家の家臣として明治時代を迎えます。
そして、明治時代に「長宗我部」の名字に復帰し、明治天皇から、長宗我部家の宗家と、認められ、以後、長宗我部友親さんまで、続きます。
長宗我部友親さんは、仕事を定年退職をした後、自分の家である長宗我部家の研究を始めたそうです。
この本は、僕も、以前、読みました。
長宗我部家の初代から、現代まで続く、長宗我部家の歴史が、記されている。
長宗我部元親は、豊臣秀吉に降伏した後、秀吉の命令で、九州に渡り、「戸次川の戦い」で、島津軍に大敗。
その時、嫡男の信親が、戦死。
それから、長宗我部元親は、豊臣政権下で、存在感を発揮することは、無くなります。
土佐の一領主から、四国制覇を成し遂げた一代の英雄が、なぜ、豊臣政権の元で、影を無くしてしまうのか。
個人的に、大きな疑問でしたが、この本に「元親は、うつ病だったのではないか」と書かれていて、「なるほど」と思ったのを覚えている。
将来を期待していた嫡男、信親の戦死は、元親にとって、とんでもない、大きなショックだったはずで、それをきっかけに、うつ病になったとしても不思議ではない。
もし、長宗我部信親が生きていれば、長宗我部家は、江戸時代も、大名として、残っていたかも知れませんね。

