宮武外骨「滑稽新聞」を読み終わったので、次は、同じく市立図書館にあったこの本を読むことにしました。

 

 

宮武外骨は、生涯の中で、多数の新聞、雑誌を刊行し、自分の著作も、多く出版している。

そして、その中で、宮武外骨は、自分自身に関することも、多く書き残している訳で、この「予は危険人物なり・宮武外骨自叙伝」は、その宮武外骨自身が書いた、自分のことに関する文章を集め、その人生を辿ったもの。

 

タイトルとなっている「予は危険人物なり」ですが、このタイトルの元になった文章が、冒頭にあります。

 

宮武外骨は、周囲から、「奇人」つまり、「変わった人」と見られていたようですね。

それは、その言動からして、当然のことと思われる。

そして、宮武外骨のことを「危険な奴」と考える人も居た。

それに関する、宮武外骨、自分自身の考察。

 

世の中には、「良いこと」「悪いこと」の、二つがある。

この判断基準は、どこから来るのか。

 

世の中には、その社会の中での「慣習」というものがあります。

 

その「慣習」には、「良い慣習」もあれば、「悪い慣習」もある。

 

そして、「良い慣習」を守ることは、「良いこと」となる。

そして、「良い慣習」を守らないことは、「悪いこと」となる。

 

では、「悪い慣習」は、どうなのか。

 

一つ、考えてみると、「悪い慣習」もまた、その社会では、従うことが「常識」であり、「当たり前」であり「良いこと」となる。

そして、「悪い慣習」に従わない人は、「おかしな人」「奇人」「変な人」と、周囲の人たちに、認識をされてしまうことになる。

つまり、「悪い慣習」に従わないこともまら、その社会では「悪いこと」となる。

 

つまり、自分は「悪い慣習」を守らない、「悪い慣習」には、従わない人間だと、宮武外骨は、書いている。

だから、自分自身は「奇人」であり、周囲からは「危険な人物」と見られているのだと言うこと。

 

しかし、これは、「言うは易し、行うは難し」ですよね。

誰しも、「悪い慣習」だと分かっていても、周囲の人たちが、その「悪い慣習」を守って行動をしていれば、自分もまた、それに、乗っからなければ、仕方が無い。

更に、その「悪い慣習」について「これは異常だ」「これは、おかしい」などと声をあげれば、それこそ「あいつは、危険人物だ」と、社会から排除をされかねない。

今、問題になっている「政治家と金」の問題など、まさに、そうではないですかね。

明らかに「悪い慣習」ですが、みんな、やっていることで、それに従わなければ「あいつは、危ない」と、他の政治家たちから、避けられてしまうのではないでしょうかね。

 

しかし、宮武外骨が、相当な「奇人」だったことは、間違いない。

その人生については、また。