玉野競輪場の駐車場から。

 

こちら、北、田井港方面。

 

同じく。

 

東方面、正面にあるのが、牛ヶ首島。

 

こちら、南方面。

正面に見えるのが、屏風島、喜兵衛島でしょう。

 

同じく。

 

この玉野市東岸に、無人島が多くありますが、そのほぼ全てが、香川県直島町に属することになる。

なぜ、このようなことになっているのか。

 

この地図を見れば、分かりますが、なぜ、玉野市沖の島々の、ほぼ全てが、香川県に属しているのか。

子供の頃は、不思議でした。

 

これは、ネットで調べて見ると、江戸時代までの管轄が影響をしているようです。

直島と男木島、女木島は、「直島三島」と呼ばれ、周辺の島々と共に、小豆島を中心とする「郡」として、まとめられていたそう。

それが、明治時代に、香川郡に編入されることになる。

ちなみに、その中に含まれる最北端の「石島」に関しては、江戸時代に境界争いの裁判が行われたそうで、石島の北半分は、備前国として認められた、それは、そのまま、岡山県と香川県の県境となる。

ちなみに、香川県側は、「井島」と表記される。

 

ちなみに、この「石島(井島)」は有人島で、人が住んでいるのは、岡山県側の「石島」の方だけ。

有人島の中に、県境があるのは、非常に、珍しいそうです。

 

ちなみに、牛ヶ首島もまた、かつて、人が住んでいたそうです。

住居があったのは、島の南部。

明治9年に、塩田が開かれたことで、人が移住をしたそうです。

大正8年には、小学校が開校。

戦後には、海運業、漁業などで、人口は、100人を超えたそうですが、その後、人口は減少。

昭和34年に、直島小学校牛ヶ首分校が閉校する。

その後、子供は、直島の小学校にボートで通っていたそうですが、昭和54年に、子供がいなくなる。

この頃、島の人口は、5戸15人。

平成2年までは、国勢調査での住民登録があったそうです。

 

この牛ヶ首島ですが、日蓮聖人の巨大な涅槃像が製作される計画があり、今でも、首の部分だけが、残っている。

これは、山陽新聞の前身、山陽新報を創刊した西尾吉太郎の娘が、1912年に亡くなり、それをきっかけに、この牛ヶ首島に所有していた3000坪の土地を寄附し、日蓮聖人の巨大な涅槃像を作り、島を一大聖園にしようと計画をしたのが始まりとなる。

これは、当時、一大計画となり、海軍大将の伊東祐亨、東郷平八郎なども賛同者となる。

 

1913年10月に、工事開始。

日蓮宗の門徒の老若男女、約1000人が参加。

しかし、第一次世界世界大戦、関東大震災、満州事変などの勃発で、計画はストップすることに。

 

こちらは、1915年、日蓮聖人石像模型竣工式典の時のもの。

 

それから、約40年後、西尾吉太郎を義祖父とする岡山金属の佐藤恒太が、計画を再開。

1955年11月に、日蓮聖人涅槃像の再起工式が行われる。

それから、約10年をかけて、顔の部分の約80パーセントが出来たものの、1977年、工事は中止。

 

こちら、日蓮聖人涅槃像の顔の部分です。

 

こちらは、巨大涅槃像のモデルとなるものでしょう。

どちらも、今も、牛ヶ首島に残されている。

 

さて、次は、牛ヶ首島の南に位置する喜兵衛島。

 

この喜兵衛島は、隣の屏風島と、橋と堤防で繋がっているそうです。

この喜兵衛島では、古墳時代に、塩作りが盛んだったそうで、四つある砂浜には、大量の土器の破片が散らばっているそう。

この製塩跡は「喜兵衛島製塩遺跡」として国の史跡に指定され、丘には、喜兵衛島古墳群があり、10メートル前後の古墳が、13基、確認されているそう。

 

魚の養殖や、採石業で、最盛期には、やはり約100人が生活をしていたそうですが、昭和50年代に、無人島になったということ。

 

隣接する屏風島には、今も、人が暮らしているそうです。

 

屏風島でも、明治の初めに、塩田が開かれ、大正期には、10戸50人の人が暮らしていたそう。

しかし、製塩業は、昭和に初めに終わり、昭和3年に、隣の喜兵衛島と堤防で結んだ中で、ハマチの養殖が始まる。

人口は、2020年で、約20人。

2014年までは、子供が、ボートで、直島の小学校に通っていたそう。

 

これらの島には、定期船はなく、チャーター船で行かなければならないそう。

なかなか、良さそうな雰囲気ですが、気軽に行けないのは、残念。