倉敷市の美観地区、その南方面を車で走っていると、「倉敷八十八カ所霊場」の赤い旗を見かけることがあります。

以前から、気になっていたんですよね。

ネットで調べて見る。

 

江戸時代、四国の八十八カ所の巡礼が盛んになると、日本の各地で、この四国八十八カ所霊場を模した「移し巡礼」というものが作られます。

備前国児島にも「児島八十八カ所」がありますが、それも、その中の一つでしょう。

この「倉敷八十八カ所」も、その中の一つで、かなり、狭い地域にまとめられているようで、地域の人たちが回りやすく、考えられたものでしょう。

 

この「倉敷八十八カ所」では、四国の霊場を模した、小さな札所が作られ、その中で、最も古いと思われるのが、第3番札所の石堂で、18世紀の末、「寛永11年」(1634)の年号があるそうです。

この頃に、「倉敷八十八カ所」は、作られたと思われる。

 

コロナ禍以前には、春(3月)と秋(11月)の、年に2回、巡礼が行われていたそうです。

 

さて、この「倉敷八十八カ所霊場」に関するページを見ていて、この霊場にも「六十六部」の廻国供養塔があるそうなので、見に行ってみました。

 

その一つが、こちら。「倉敷八十八カ所」の赤い旗が建っていますね。

ネットで調べると、ここは「倉敷57番・栄福寺」ということになるようです。

 

正面から。

こちらには、「五十七番・八幡寺」とありますね。

向かって右が、阿弥陀如来像。

向かって左が、弘法大師像。

 

そして、左にあるのが、「六十六部」廻国供養塔となります。

 

「奉納大乗経典六十六部日本回国供養塔」と、中央に書かれ、向かって右には「天下和順・願主」と書かれています。

向かって左には、「日月清明・當所・濱田町長吉」と書かれているそう。

 

そして、向かって右の側面には、「文化十四年(1817)丁丑暮秋造立」と書かれている。

 

この「六十六部廻国供養塔」は、濱田町の長吉という人物が、六十六部の廻国を終えた記念に、建てたものなのでしょう。

 

他にも、この「倉敷八十八カ所」の中には、まだ、他にも「六十六部廻国供養塔」が存在している場所があるようなので、そのうち、また、行ってみないと。