ながらりょうこ「北国ゆらゆら紀行」の第2巻を読了。
まずは、第1巻の粗筋。
主人公の「月子」は、第1巻の冒頭で、無職となり、唯一の親友「ちとせ」に誘われて、小樽に行き、食べ歩き。
そこで、ちとせは、月子に「自分の仕事を手伝わないか」と誘う。
更に、ちとせは、自分が、今、住んでいる古民家のシェアハウスにも「一緒に住まないか」と誘う。
ちとせは、雑誌に記事を書いたり、食べ歩きのブログを書いたりしながら、将来的に、自分で、地域情報紙を出版するのが目標。
月子は、悩むが、無職となり、これからの将来を考えた時、引っ込み思案で、他者とのコミュニケーションが苦手な自分を、何とか、変えてみようと、ちとせの住むシャアハウスに引っ越しをすることを決意。
そのシェアハウスの持ち主は、海外に住んでいて、今、日本には居ない。
同居人は、「健介」という男性。
そして、健介の恋人の「美和」という女性は、そこに住んではいないのだが、頻繁に出入りをしている。
月子は、シャアハウスの持ち主の持ち物で溢れ、物置になっている部屋を片付けて、そこに住むことになる。
そして、その中でみつけた「木彫りの熊」に関心を持ったちひろは、この「木彫りの熊」について、月子と、調べに行くことに。
ここから、第2巻。
雪の降る中、車で、札幌を出発。
中山峠の道の駅「望洋中山」で休憩。
ここから、羊蹄山が見えるのですが、雪の降る悪天候で、見えなかった。
月子と、ちひろは、中山峠名物の「あげいも」を食べる。とても、美味しそう。
そのうち、雪は止み、洞爺湖で休憩。
お昼には、長万部で「かにめし」を食べる。かにめし本舗「かなや」。
そして、「木彫りの熊」発祥の地、八雲町に到着。
八雲町には、道内唯一「木彫りの熊」の資料館があります。
明治2年(1869)、蝦夷地は「北海道」となり、本格的な開拓が始まります。
明治11年(1878)に、この八雲町(当時、ユーラップ)の開拓に入ったのが、尾張徳川家の家臣だった人たち。
(ちなみに、伊達市は、仙台藩伊達家の家臣の人たちが入った土地なんですよね)
開拓は「徳川農場」を中心に行われましたが、やはり、北海道の気候の厳しさによって、開拓は難航。
そんな中、尾張徳川家の当主となった徳川義親は。北海道の各地を視察し、アイヌの人たちとも親交を持つ。
アイヌの人たちと共に生活をすることもあり、「熊狩り」や「熊送り」にも参加。
義親は、「熊狩りの殿様」とも呼ばれたそう。
そして、義親は、海外への視察にも出かけていた。
その中で、1924年、スイスの首都ベルンで、「木彫りの熊」を見つけ、「冬期の仕事に、良いのではないか」と、いくつかを購入し、八雲町に送る。
これが、北海道の「木彫りの熊」の発祥となります。
さて、実は、この八雲町の「木彫りの熊」ですが、北海道の「木彫りの熊」の発祥は、この八雲町だけではありません。
もう一つの発祥の地が、旭川です。
元々、北海道では、アイヌの工芸品として、木彫りの小物が、人気だったそうですね。
そして、1926年、旭川アイヌの松井梅太郎が、熊を彫り始めたそう。
これには、自身が、熊狩りで、大怪我を負ったことが、きっかけになったそうです。
そして、その仲間たちの間でも、木彫りの熊を彫り始め、観光地で実演販売をしたり、道内を回ったりしたそうです。
これが、もう一つの「木彫りの熊」のルーツ。
そして、昭和30年(1955)から昭和60年(1985)頃、北海道観光が大ブームとなり、この時に、多く、作られるようになったのが、鮭を咥えた「木彫りの熊」です。
これについては、発祥は、明らかでは無いそう。
ちなみに、八雲町発祥の「木彫りの熊」では、様々な作家が活躍。
しかし、職人は、次第に、少なくなって行ったそう。
第1巻では、「鮭を咥えたものより、鮭を咥えていない熊の方が、価値がある」という話が出て来ますが、これは、名のある作家たちの作った作品だからでしょう。
つまり、大量生産のものではない。
この八雲町の木彫りの熊の資料館には、世界各地の「木彫りの熊」が、展示されているようですね。
また、「熊友工房」というところでは、「木彫りの熊」体験が出来るそうです。
要予約。
しかし、現在、この「熊」は、悪者になっていますよね。
人里に出没し、驚異になっている。
どうも、気候変動が理由の一つのようですね。
やはり、人間の生活の驚異になるのならば、殺処分となるのも、やむを得ないのかも。

