雑誌「歴史街道」の今月号。

特集は、「真田一族と関ヶ原」ということで、ようやく、購入。

 

 

その中から、「第二次上田合戦」について。

 

そもそも、この「上田城」は、徳川氏が築いた城です。

天正11年(1583)、当時、徳川氏の配下となっていた真田氏の領土を、越後国の上杉氏が、攻撃をする様相を見せる。

それに対抗するために、徳川氏は、「海士淵」という場所に、城を築きます。

これが、「上田城」です。

しかし、この時、上杉氏と徳川氏の戦闘は、結句、起こらなかった。

 

その後、徳川氏は、北条氏と手を結ぶことになるのですが、この時、徳川家康は、真田領であった「沼田・吾妻領」を北条氏に譲ることを決め、その代わりに、真田昌幸に、上田城を与える。

しかし、真田昌幸は、上田城を受け取ったもの、自領の北条氏への譲渡を拒否。

真田昌幸は、天正13年(1685)7月、徳川氏と断交し、上杉氏と、手を結びます。

同年8月、徳川軍が、真田領に侵攻。

真田昌幸は、上杉景勝に、援軍を求めます。

しかし、上杉軍の到着は遅れ、真田昌幸は、単独で、徳川軍を、上田城で迎え撃ち、撃破。

これが、「第一次上田合戦」です。

その後、上田城は、上杉軍によって、大改修が行われます。

 

現在の上田城は、江戸時代に、仙石氏が築いたものだそうで、真田昌幸の時代の上田城が、どのようなものだったのか。

確かなことは、分からないようです。

しかし、元和年間の上田城の絵図が残っていて、参考になるそう。

 

さて、慶長5年(1600)、徳川秀忠が率いる徳川軍が、上田城に迫ります。

この時に行われたのが、「第二次上田合戦」です。

 

実は、この時、どのような戦闘が行われたのか、一次史料が少なく、よく分からないそうです。

確かな史実と言えるのは、

 

「徳川秀忠軍が、上田城を攻めた」こと。

「秀忠が、真田信幸に命じて、砥石城を抑えることに成功した」こと。

「徳川軍は、冠者ヶ嶽城を攻めたが、落とせなかった」こと。

 

この三つだけだそうです。

 

また、軍令違反を犯した鎮目惟明、朝倉宣正が、3年間、真田信幸の岩櫃城に預けられたことも確かだそう。

更に、関ヶ原合戦の後、真田昌幸、真田信繁が、西軍首脳の人たちに次いで、厳しい処分を受けていることから、徳川軍が「第二次上田合戦」で、敗北したと認識していたと考えられる。

 

近年の説では、この時、徳川秀忠が率いたのは、徳川軍の「主力」で、目的は、信濃方面の敵(西軍方)を制圧することだったと思われるよう。

つまり、徳川秀忠は、「関ヶ原」に向かうために、信濃を進軍していた訳ではない。

 

徳川秀忠にとって、真田昌幸は、討伐しなければならない対象だった訳で、決して、真田昌幸に翻弄されて、関ヶ原に向かうのが遅れた、と、言う訳ではない。

急遽、関ヶ原に向かうことになったのは、予定外のことで、しかも、使者が到着するのが遅れ、到底、間に合うはずもなかった。

 

この辺りの事情は、また、別の機会に。