宮武外骨「滑稽新聞」の第105号まで、目を通したところ。
この間、日露戦争では「日本海海戦」の大勝利。
しかし、「滑稽新聞」では、この記事は、あまり、大きく扱われなかったようです。
相変わらず、大阪府警との対立は続き、萩欽三警視正への攻撃は続く。
しかし、この萩欽三への処分は、何も行われなかったということで、「滑稽新聞」では、攻撃対象を、大阪府知事「高崎親章」に変更。
この高崎親章について、ネットで調べてみる。
この「高崎親章」は、元薩摩藩の武士の生まれ。
そして、明治に入り、成長をすると、警視庁に入庁する。
つまり、元警察官。
この元警察官の高崎親章を敵に回したことで、「滑稽新聞」は、大阪府警を挙げて、合法的な嫌がらせを受けることになる。
大阪府警では、「滑稽新聞」に関連する印刷所や、販売店に、警察官を送り込み、「『滑稽新聞』に関わっていると、暴漢から攻撃を受ける危険があるから、「滑稽新聞」を印刷、販売することは止めろ」という圧力をかける。
また、関連する裁判も、次々と、起されることになる。
また、「滑稽新聞」に投書を続けていた有名な投稿者が、日露戦争で戦死。
その戦死を悼む記事も、掲載されていました。
また、この頃、政府は、社会の風俗の取り締まりに、躍起になっていたようで、いわゆる「春画狩り」「淫売狩り」というものが、頻繁に行われてたようで、「滑稽新聞」では、これを批判し、皮肉る記事が、毎号、掲載されています。
ちなみに、こちら、「猫」の絵に見えますが、裏面を見ると、こうなっています。
これは、「芸者」と「娼婦」になります。
当時、「猫」というのは、彼女たちを表す言葉として、使われていたということ。
この「風俗」という点では、いわゆる「猥褻か、芸術か」という問題も、明治時代に始まったことのようで、そのきっかけになった事件の記事も、以前の「滑稽新聞」に掲載されていました。
また、「男女和合」「子孫繁栄」を表す「道祖神」の設置、信仰が禁止されたのも、明治時代のこと。
ちなみに、「妾」の存在も、法律的には、認められなくなる。
これらは、欧米からの目を意識したということになるようですね。
つまり、こういう「風俗の乱れ」と思われるものを放置していると、欧米から見れば「野蛮だ」と思われ、日本が後進国だというイメージを与えると思われたのでしょう。
そして、日露戦争は、日本海海戦の大勝利を機に、政府は、ロシアとの講和を進めることになる。
これは、日本には、もはや、戦争を続ける余力はないが、ロシアには、まだまだ、戦争を続ける力がある。
そのため、この戦闘での勝利を機会に、ロシアとの間で、有利な条件で、講和を結んだ方が良いのではないかという判断から。
そして、アメリカの仲介で、アメリカのポーツマスで、日本とロシアの講和交渉が行われることになる。
しかし、この講和交渉は、ロシア側の有利に進んだ。
日本は、譲歩を迫られ、その内容が、日本で報じられると、日本国内で、国民の猛反発が起きる。
そして、新聞もまた、講和の破棄と、戦争の継続を主張し、国民感情を煽ることになる。
それは、「滑稽新聞」も、例外ではない。
この記事が、まさに、それでしょう。
日本は、戦争に勝っても、外交に負けるという者がある。真に、然りだ。
講和談判は、成立よりも破棄の方が良いと言った者がある。真に、然りだ。
最大屈辱、最大汚名、最大不利の講和だと言った者がある。真に、然りだ。
どちらが戦勝国だか分からぬと言った者がある。真に、然りだ。
日本は、講和にあらずして、講和だと言った者がある。真に、然りだ。
東洋永遠平和の大義を没却せしめたと言う者がある。真に、然りだ。
戦勝国の名誉は、全く、ゼロになったと言った者がある。真に、然りだ。
戦死者は、地下で、切歯落涙するであろうと言った者がある。真に、然りだ。
半旗を掲げて、平和を吊さねばならぬと言った者がある。真に、然りだ。
恐露病者は、いつまでも恐露病者だと言った者がある。真に、然りだ。
エー情けない、不甲斐ない、残念至極だと言った者がある。真に、然りだ。
待合遊びより他に能の無い腰抜老爺共奴と言った者がある。真に、然りだ。
今は、正義強硬の言論も無効力の時代だと言った者がある。真に、然りだ。
元老と閣臣に、自殺を迫るべしと言った者がある。真に、然りだ。
然り、然り。真に、然りだ。
新聞各紙は、紙上で、「講和破棄」「戦争継続」を、訴え続けた。
政府は、その対応に苦慮することになる。
そして、東京の日比谷で、「講和反対」を唱える大規模な集会が開かれ、それが、暴動に発展。
政府は、戒厳令を敷くことに。
新聞各紙は、この大規模な暴動を起した民衆を「忠愛の臣」として、賞賛することに。
しかし、「滑稽新聞」では、それに反して、「暴動」は、「法律違反」ではないかという記事を掲載していました。
もっとも、記事の内容は、「暴動」を批判しているのではなく、「法律」を批判しているニュアンス。
それには、こういう理由がありました。
講和に反対をする国民を煽る新聞各紙に、業を煮やした政府は、勅令によって、内務大臣の判断で、新聞の発行停止を実行出来るように制度を変えます。
これに、猛反発をした「滑稽新聞」は、政府を猛批判する「号外」を発行。
もちろん、発行停止の処分を受けます。
そして、国民の政府への反発は、更に、高まり、それは、政府要人の「妾」にも及んだ。
こちらは、政府要人と、その妾の図。
このように、政府要人の妾が、誰であり、しかも、どこに住んでいるのかということは、国民が、広く知っていたことだったよう。
そして、政府への反発が高まり、その反発は、この妾たちにも向かったようで、妾にも、警護が付けられたそうです。
さて、「滑稽新聞」には、政府を皮肉る記事が、もう一つ。
政府は、ロシアに対して弱腰だが、国民は、大きな講和反対運動、暴動を起すことで、そうではないということを、世界に示すことが出来た。
これは、日本にとって、良いことだ。
と、言う内容。
恐らく、当時の日本国民は、多くが、そう思っていたのでしょう。
しかし、それが、その後、日本を、無謀な戦争に向かわせ、壊滅に追い込むとは、誰も、思わない。




