西田幾太郎「善の研究」。

哲学の本というものは、とても難解で、普通の人に、読みこなせるものではないということのよう。

しかし、この本。

詳しい解説や、注釈が付いているようなので、チャレンジして見ることに。

 

 

まずは、「序」。

これは、明治41年に書かれたもの。最初に、本が出版された時に、書かれたものでしょう。

 

そして、「再版の序」。これは、大正10年。

これは、文字通り、再版をする時に付けられた、新たな「序」でしょう。

 

更に、「版を新するに当たって」。

これは、昭和11年。

最初の出版から、時が経ち、新たに、版を改めて、出版をする時に、付けられたものでしょう。

 

この三つの短い文章にも、詳しい「注」と「解説」が付けられている。

これが、なかなか、面白い。

 

その中で、興味深いものが、一つ。

 

ドイツの哲学者、物理学者の「フェヒナー」という人物の思想について。

 

西田幾太郎は、この「フェヒナー」の思想に親近感を抱いていたそうで、「哲学概論」という本で、詳しく、紹介をしていて、その文章が、掲載されていました。

 

フェヒナーは、元々、物理学者。

しかし、40歳くらいから、哲学者となる。

その頃、フェヒナーは、目を悪くして、物理学の実験が出来なくなっていたそうです。

そして、ある時、こういうことに気がつく。

 

自分の周囲で起こる現象は、物理学の立場からすれば、「アトム」(原子)の運動に過ぎない。

光も、色も、音もない、いわば「夜の光景」です。

しかし、光も、色も、音もある、直接の世界が、世界の真の姿ではないだろうか。

いわば「昼の光景」が、世界の真の姿ではないか。

 

そして、フェヒナーは、「植物も、魂を持ったものである」とし、更に、「宇宙にも、魂がある」とした。

つまり、フェヒナーは、人間だけでなく、動物、植物、地球、太陽系、そして、宇宙も、魂を持った「生きもの」であると考えた。

 

宇宙の中にあるものは、人間にせよ、何にせよ、みんな、他に依拠して、存在している。

しかし、宇宙そのものは、自存的な存在であり、宇宙の魂は、すなわち、「神の心」であり、万物は、それを「分有」して生きている。

これを「汎神論的唯心論」と、言うそう。

 

そして、フェヒナーは、「死後の世界」の生活も、認めていたそう。

 

現世に生きている人間は、直接には、役に立つことのない、色々なことを考える。

これは、死後、もっと「高い魂」の生活をする時に、役に立つ。

一見、無駄と思える思想を人間が持つということは、実は、魂の高次の生活を準備するものであり、また、それを保証するものである。

 

つまり、精神的生活が、人間の、根源的、本質的な生活であり、物質的生活は、低度の生活であるということ。

物理学者が見ている世界は、実在の一方面を見ているに過ぎない。

 

さて、この「あらゆるものに魂があり、それは、今、生きている世界だけではなく、死後の世界にも続いている」という話。

 

何だか、宮沢賢治の世界のようでもありますね。

 

色々と、「余計なこと」「無駄なこと」「役に立たないこと」を考えることも、決して、無意味なことではない。

そして、全ての魂は、繋がっていると考えれば、自分が独りでも、孤独ではないと思える。

 

こういう世界が、本当にあるのかどうかは、分かりませんが、良いことです。