今朝の藤井海岸。
天気予報の通り、今日は、ぐっと気温が下がりましたね。
冬用タイヤに付け替える人が、一気に増えているようだという話を、ローカルニュースで、していました。
雪の降らない土地では、冬用タイヤは、必要ないですが、どのようなものなのでしょう。
やはり、雪の上でも、走りやすいということになるのでしょうかね。
さて、最近、NHKの「歴史探偵」で、「武田勝頼」そして「朝倉義景」をテーマにして放送がされていましたね。
双方、共に、名門といえる「家」を滅ぼしてしまったので、世間の評価は、かなり低い。
しかし、武田勝頼が、とても優秀な武将だったという話は、以前、どこかで読んで、認識は、していました。
しかし、朝倉義景もまた、同時代には、かなり、評価の高い戦国大名だったようですね。
それは、今回の放送を見て、初めて、知ったところ。
まず、「武田勝頼」について、個人的な印象。
武田勝頼に関しては、やはり、父、武田信玄と切り離して、考えることは出来ない。
元々、武田勝頼は、側室の子である上、他家に養子に入っていたため、本来、家督を継ぐ立場ではなかったんですよね。
しかし、嫡男、武田義信が、父、信玄と対立し、廃嫡。
思いがけずに、家督を相続することになった訳ですが、ここには、大きな困難があったはず。
なぜなら、武田家の家臣団は、武田信玄のカリスマ的能力によって築かれたもので、それを、どのようにコントロールして行くのか。
また、家臣団は、当主、武田勝頼を、どのように見ていたのか。
武田家というのは、元々、有力な国衆の連合体のようなもので、当主の権力は、それほど、強いものではなかったはず。
つまり、有力家臣の同意がなければ、政策、軍事を進めることは出来なかった。
武田信玄は、村上義清との戦いで、大敗を喫し、板垣信方、甘利虎泰といった重臣を失いますが、これは、信玄にとって、かえって良かったという面もあったよう。
つまり、簡単にコントロールをすることが出来ない有力家臣が、居なくなった。
これは、信玄の権力の強化に繋がったのでは、と、言う話。
武田勝頼は、こういった有力家臣を、統制するために、何をしようとしたのか。
それには、やはり、「合戦に勝つ」「領地を広げる」というのが、最も、重要なこと。
実際、勝頼は、武田信玄の築いた領地を、更に、拡大し、武田家最大の版図を築く。
更に、本拠地を移転し、重臣たちの影響力を弱めようという構想もあったようですね。
しかし、それは、滅亡によって、未完に終わった。
さて、「長篠の戦い」ですが、なぜ、武田勝頼は、織田信長に、決戦を挑んだのか。
番組の中では、「織田信長、徳川家康が、そろって出陣をして来た。これは両者を討つ、絶好の機会だ」と考えたのではないかと話していました。
つまり、両者が揃った軍勢を打ち破れば、一気に、ケリをつけることが出来る。
しかし、武田勝頼は、大敗北を喫した。
大きな誤算です。
この合戦の後も、武田勝頼は、積極的な行動をしていたようですが、恐らく、この敗戦で、家臣への求心力は、一気に低下をしたのではないでしょうかね。
そのため、織田軍の侵攻が始まると、重臣たちが、次々と、勝頼の元を離れ、最期は、重臣に裏切られ、自害をする。
織田信長は、「武田勝頼は、優れた武将だったが、運が無かった」と書き残しているようですね
その能力を、十分に、発揮することができなかったと言うことでしょう。
さて、「朝倉義景」について。
朝倉家は、応仁の乱以来、越前国を支配し、代々、その勢力を維持して来た名門です。
朝倉義景が当主であった時、その拠点である「一乗谷」は、華やかな文化が、栄えていたようですね。
そして、軍事力も周囲から評価をされていて、朝倉義景は、天下を狙える有力な戦国大名の一人と見られていた。
足利義昭が、朝倉義景を頼ったのも、そういう評価があったためでしょう。
しかし、やはり、朝倉義景は、優柔不断で、積極果敢な行動を見せなかった。
これは、やはり、朝倉家の持つ実力を、十分に発揮するには、能力が不十分だった、と、言うことになるものと思います。
朝倉義景には、織田信長を倒すチャンスが、二度、あった。
一つは、浅井長政が裏切り、朝倉攻めを中止して、撤退をした時。
もう一つは、織田信長、最大の危機と言われる「志賀の陣」でのこと。
どちらも、朝倉義景が決断をし、積極果敢に、織田軍に攻め込んでいれば、織田信長を、追い落とすことが出来ていたかも知れない。
しかし、朝倉義景は、その決断をしなかった。
なぜ、朝倉義景は、動かなかったのでしょう。
やはり、名門の「お坊ちゃん」で、状況判断が、甘かった、と、言うことになるのでしょうかね。
個人的には、「なぜ、浅井長政は、織田信長を裏切り、朝倉義景に味方をしたのか」という点にも、関心があるところ。
なぜ、浅井長政は、織田信長と手を切り、朝倉義景を選んだのでしょう。
よく言われるのは、「朝倉家と浅井家とは、長く、深い繋がりがあり、織田信長が、朝倉攻めを行う時には、事前に話をするという決め事があったのだが、それを、信長が無視をしたため」ということ。
しかし、これは、事実なのでしょうかね。
個人的には、どうも、そうとは思えない。
推測をすると、浅井長政は、織田信長による自身への扱いが、気に入らなかったのではないでしょうかね。
つまり、浅井長政は、織田信長とは「対等」の関係と思っていたのだが、織田信長は、浅井長政を「家臣」のように扱っていたということ。
これに、不満を募らせ、朝倉攻めを好機として、今、自分が裏切れば、信長を討てるのではないか、と、考えたのではないでしょうか。(これは、明智光秀の「本能寺の変」も、同じでしょう)
しかし、信長の動きは、予想外に速かった。
朝倉義景も、動かない。
結局、好機を逃すことになってしまう。
ちなみに、徳川家康もまた、織田信長と、当初は、「対等」の同盟関係だったのですが、次第に、織田信長は、徳川家康を、「家臣」のように扱うことになる。
しかし、徳川家康は、それに不満を募らせることなく、唯々諾々と、織田信長に従った。
もし、浅井長政が、徳川家康のように、辛抱を続けていれば、信長の死後、羽柴秀吉、徳川家康と、天下を争うことになっていたかも。
