さて、「空也」について、この本を読んでいると、興味深いことが、いくつか。

一つは、「聖」と「葬送」について。

 

 

空也は、放置されている遺体を集め、火葬をし、念仏を唱えたと言われています。

この「葬送」に関わった人としては、「三昧聖」(さんまいひじり)という存在が、知られています。

 

この「三昧聖」には、「オンボウ」という呼び名もあり、様々な漢字が、当てはめられるそうです。

例えば「隠坊、御坊、隠亡」など。

彼らは、遺体の火葬、埋葬や、墓地の管理に従事をした人たちで、半僧半俗の「聖」です。

彼らの中には、空也を祖と仰ぐ「空也僧」も居ました。

 

この三昧聖は、「六道の辻」「六地蔵」などと呼ばれる墓地の入口で、遺族から遺体を受け取り、そこから先は、三昧聖によって、回向と供養がなされたということ。

そして、遺族は、二度と、墓地に近づくことは無かった。

遺体が、葬られる場所というのは、「穢れ」た場所で、一般の人が近づく場所ではない。

つまり、長い間、「墓参り」という習慣は、日本には、無かった。

 

そもそも、この「三昧」というのは、「墓地」を示す言葉です。

その早い例が、鎌倉時代の中期の史料。

この頃の史料から、奈良般若寺の西南に広がる「般若野五三昧」が、墓地であったことが分かるそう。

 

そして、「三昧聖」という言葉が登場する早い例は、南北朝時代。

若狭国小浜の史料に「三昧聖」が、「非人施行」の対象として記されている。

つまり、被差別民だったということ。

やはり、「穢れ」に関わる人たちは差別をされることになる。

また、室町時代前期には、「三昧聖り」「御坊聖」という言葉も見える。

 

しかし、上の史料では、「三昧聖」が、何をしていたのかということは分からない。

それが、分かるのが、戦国時代の史料。

その史料には、三昧聖が、「当道之職」に就いていたことが記され、この「当道之職」とは、葬送に関する仕事のこと。

そして、彼らが、為政者とは無関係の立場に居たことも分かる。

具体的には、数人の三昧聖が、他の人たちと一緒に、何か、事を起した疑いで捕縛をされたのですが、「三昧聖だから、そういうことには関係ないだろう」ということで、保釈されたということのようです。

 

16世紀初頭、和泉国の史料では、三昧聖の組織化が、始まっていたことが分かるよう。

また、摂津国尼崎の大覚寺の子院の菩提寺では、墓地の管理や土葬、火葬に従った聖、つまり、三昧聖が居たことが知られている。

キリスト教の宣教師、ルイス・フロイスも、三昧聖の様子を、報告書に記している。

フロイスの報告では、三昧聖は、貧しい武士や、放浪者を火葬する習慣があったということ。

 

ちなみに、中世、奈良、般若野五三昧の葬送に従事したのは「奈良坂非人」です。

そして、京都、鳥辺野の葬送に従事したのは「清水坂非人」でした。

中世の末期まで、葬送を専門にする身分の成立はなく、「坂非人(坂の者)」や、寺院の下級僧侶である「斎戒衆」などが、葬送に従事していたようです。

 

この「坂の者」は、「坂」に住む人たちのことでしょう。

そして、「河原者」とは、「河原」に住む人たちのことだったはずで、どちらも、被差別民ということになる。

なぜ、「坂」や「河原」に人が住むのか。

そして、なぜ、彼らが、被差別民なのかということには、関心があるのですが、それは、また、別の話。

 

京都、鳥辺野は、平安時代、一大葬送地となり、その地域には、「坂非人(坂の者)」と呼ばれた人たちが集団で居住していた。

その存在が見えるのが、平安時代後期の史料から。

寛元2年(1244)には、清水坂非人は、畿内の非人宿の支配権を巡って、奈良坂非人と、衝突を起す。

この清水坂非人は、京都の町で乞食をすること、そして、葬送の時に所持する葬具類などを獲得する強い権限を持っていたそう。

清水坂非人の組織、葬送権は、江戸時代初期にも続いていたそうです。

 

この清水坂非人には、遅くとも14世紀中頃以降には、「惣衆」と呼ばれる内部組織があり、「奉行」によって構成される「坂之沙汰所」と呼ばれる最高決定機関があり、「奉行」の中から「沙汰人」が選ばれ、「出入」の解決に当たったそうです。

また、奉行の決定による文書を作成する「公文所」もあった。

一般の非人は、「坂惣衆」と呼ばれる。

 

被差別民も、ただ、虐げられていた訳ではない。

職業を独占することによって、強い権限を持ち、また、大きな力を持つこともある。

 

しかし、なぜか、18世紀初頭になると、史料から「清水坂非人」の名前は消え、「山守」「隠亡」「火屋隠亡」などが登場するようになる。

清水坂非人は、どうなったのか。

どうも、よく分からないようです。

 

さて、「三昧聖」は、いくつかの系統に分けることが出来るそうです。

 

行基(東大寺)系三昧聖、空也系三昧聖、時衆系三昧聖、高野山系三昧聖、その他の聖、の五つ。

畿内の七カ国では、三昧聖は、行基系が、圧倒的に多く、東大寺龍松院が、組織の本山として活動していた。

この三昧聖は、「隠亡」「墓守」の多に、中国地方では「茶筅」、山陰地方では、「鉢叩」「鉢屋」、北陸地方では「遠内」、紀州では「谷の者」「風呂組」などと呼ばれ、他には、「鉦打」「念仏者」などと呼ばれた。

 

さて、「空也聖」について。

 

空也僧は、鉢や鉦を叩き、簓をすって踊念仏をする芸能者。

生業として、茶筅を作って、売り歩く者。

三昧聖として、葬送に関わる者。

などに分かれる。

 

江戸中期の記録では、「鉢叩」が、厳冬の毎夜、都の外にある墓地を巡る様子が記されている。

また、空也聖が、冬の夜に、鉢を叩き、念仏を唱えながら京都の市中を巡るのは、冬の風物詩でもあったようです。

 

さて、「茶筅」というもの。

お茶を点てる時に、使うものですよね。

なぜ、この「茶筅」が、被差別民、聖の名称になったのか。

以前から、疑問でした。

 

この「茶筅」もまた、空也と、大きなつながりがあった。

 

毎年、12月18日、京都の六波羅蜜寺で、正月の参詣者に授与される大福茶用の茶葉を奉納会式が、実施されるそうです。

そして、正月三が日に六波羅蜜寺に参詣した人たちに、奉納会式で、本尊に供えられたお茶を使った「大福茶」が授与される。

大福茶と一緒に、御札型呪符も、授与されるそう。

 

これは、空也にまつわる伝承が起源となっていて、村上天皇が病気の時に、空也が、本尊前の供えたお茶を献上し、村上天皇が、それを飲んで、回復としたという話。

また、天暦5年に、京都で疫病が流行した時、空也は、十一面観音に供えたお茶を、病人に飲ましたところ、たちまち回復したとう話などが、あるそうです。

 

また、空也堂では、空也忌(11月13日に、最も、近い日曜日)の法要の間、本尊である空也上人像に抹茶が供えられ、その残りの抹茶を「王服茶」として、参詣者に振る舞われる。

この王服茶を飲むと、一年、無病息災に過ごせるということ。

 

そして、師走には、空也聖たちが、「茶筅」を、京都で売り歩いたそうです。

また、空也堂では、空也忌に限り、特別な茶筅が、売られたそう。

 

この「茶筅」は、空也聖にとっては、御札のような意味を持っていたようですね。

そして、被差別民である聖が、茶筅を売り歩いたため、「茶筅」という名前が、そのまま、被差別民を指す名前となったのでしょう。