昨日、朝の藤井海岸。

 

今朝は、寒かったですね。

今朝は、朝日が眩しすぎて、写真を撮るのを諦めました。

 

昨日も、いつもの、小さくて、かわいい船が、右に向かって、航行中。

どこから来て、どこに行って、何をする船なのでしょうね。

 

さて、大河ドラマ「べらぼう」から、いくつか。

 

松平定信が、失脚しましたね。

かなり手の込んだ、失脚劇でしたが、史実としての松平定信の失脚は、どのような経緯だったのでしょう。

ネットで調べて見ると、有力な説では「尊号一件」が原因ということのよう。

この「尊号一件」は、光格天皇が、天皇ではなかった父親に「太上天皇」の称号を贈ろうとして、それに、松平定信が反対をしたというもの。

なぜ、これが、失脚の原因になるのかといえば、将軍、徳川家斉が、将軍ではない父親、一橋斉治に「大御所」の尊号を送ろうという意図があったため。

松平定信は、当然、将軍ではなかった一橋斉治に「大御所」の尊号を送ることには反対。

徳川家斉と対立をした結果、松平定信は、失脚した、ということ。

もちろん、この説で、確定なのかと言えば、そうではないようで、やはり、大きな原因は、松平定信の政治方針が、周囲の支持を失ったということなのでしょう。

そうでなければ、松平定信が、失脚をする理由がない。

 

しかし、昔、読んだ、ある本に書いてありましたが、やはり、徳川幕府は、「将軍」が、「絶対的権力者」なんですよね。

つまり、幕府の政治は、基本的に、「将軍」の意思によって、決まることになる。

例えば、徳川綱吉の信頼によって権力を発揮した柳沢吉保。

徳川家治の信頼を受けて、権力を発揮した田沼意次。

彼らが、なぜ、特別な権力を発揮することが出来たのかと言えば、「将軍」の、深い信頼があったからです。

二人とも、自分を信頼してくれて、政治を任せてくれていた将軍が死去すると、権力を失い、失脚をすることになる。

松平定信の失脚も、恐らく、将軍、徳川家斉の信頼を失ったということが、大きな原因なのでしょう。

将軍の信頼が無ければ、幕府の政治で、権力を発揮することは出来ない。

 

ちなみに、幕末、第14第将軍を、誰にするのか。

幕府内部での勢力争いが、繰り広げられます。

紀州藩主、徳川慶福を支持する人たちを「南紀派」、一橋家当主、一橋慶喜を支持する人たちを「一橋派」と呼びます。

この「南紀派」「一橋派」の対立と、駆け引きは、京都の朝廷も巻き込み、幕末の政治の混乱に、拍車を掛けることなる訳ですが、最終的に、「南紀派」が、井伊直弼を大老職に就けたことで、第14代将軍は、徳川慶福で、決着がつく。

この両者の争いですが、個人的には、やはり、第13代将軍、徳川家定の意向が、大きく働いたのではないかと思うところ。

徳川家定は、一橋慶喜を嫌っていたという話。

つまり、この時点で、「南紀派」が勝利をすることは、ほぼ、確定していたものと思います。

ちなみに、大河ドラマ「篤姫」では、この徳川家定を、堺雅人さんが演じていた。

うつけ者を装いながら、実は、切れ者という設定で、とても良い徳川家定だった。

 

さて、喜多川歌麿が、蔦屋重三郎の元を去る決意をしましたね。

なぜ、歌麿が、蔦屋の元を去ったのか。

史実としては、よく分からないということのようです。

そもそも、喜多川歌麿という人物が、どのような人生を送ったのか。

何も、史料が無いので、そのこと自体が、よく分からないということのようです。

歌麿は、結婚をしたのか。

歌麿に、子供は居たのか。

それも、分からないという話。

しかし、美人画で有名な歌麿は、母親と子供の浮世絵も、いくらか残しているようで、その絵を見ると、やはり、歌麿には、子供が居たのではないかという話。

もっとも、喜多川歌麿が、結婚をして、子供が居るのは、普通のことでしょう。

むしろ、生涯独身で、子供が居ないと考える方が、不自然なのかも知れない。

 

そして、問題は、蔦屋の「秘蔵っ子」とも言える存在だった喜多川歌麿が、なぜ、蔦屋ではない出版社から、浮世絵を出すようになったのか。

以前、読んだ本では、蔦屋が、「東洲斎写楽」に力を入れるようになったことが原因かも知れない、と、書かれていたものがありました。

この「東洲斎写楽」を、どのように登場させるのか。

個人的には、今回の大河ドラマ「べらぼう」の中で、最も、注目をしていたところだったのですが、どうも、ネットの記事を見ると、「東洲斎写楽」が、ドラマの中で、個人として登場することはないようですね。

蔦屋を中心に、様々な人が力を合わせた「プロジェクト」として「東洲斎写楽」は、登場するようです。

そして、絵を描くのは、やはり、歌麿ということになるよう。

 

この「東洲斎写楽」は、浮世絵の魅力は、もちろんですが、この「東洲斎写楽」という「名前」にも、興味を引かれるところ。

ドラマの中でも、「しゃらくさい」という言葉から「写楽」となるようですが、この「写楽」という名前は、いかにも、何か「別の意味」を持たせている感じがする。

やはり、最初に思いつくのは、「しゃらくさい」という言葉ですが、もう一つは「写すことが、楽しい」という意味。

この「東洲斎写楽」の浮世絵は、「あまりにも、真を写しすぎ」ということで、人気が出なかった。

この画風と「写楽」という名前にも、関連があるような気がする。

もちろん、「写楽」という名前に、何か、意味が込められているのと同様に、「東洲斎」の方にも、何か、意味が込められている気がする。

普通に考えれば、「東州」とは、「東の国」ということになる訳ですが、やはり「江戸」を指しているのでしょうかね。

 

やはり、「東洲斎写楽」が、個人として登場しないのは、残念なところ。

蔦屋重三郎が、どのようにして写楽を見つけ、絵師としてデビューをさせるのか。

その経緯が、見たかったのですが。