玉野市八浜にある「宗蔵寺」」に、「六十六部」の「廻国供養塔」があるということなので、以前、見に行ったのですが、中で、何かをしているようだったので、門の中に入りづらくて、引き返してしまった。

そして、今日、もう一度、行ってみようかと出かけて見たところ、人が居ないようだったので、中に入ってみました。

 

こちら、両児山の東の麓にある「宗蔵寺」です。

ここから、石段を、登ります。

 

傍らには、児島八十八カ所の第七十四番を示す石柱が置かれています。

明治二十年三月の年号がありますね。

 

寺の縁起。

坂上田村麻呂が、金の冑を奉納して、戦勝祈願をしたという波知の圓通寺から、大安年間(1444年頃)に、分かれて、広木に「衛相案」という堂宇を建てたのが始まりということ。

天正5年5月、現在の場所に移転。「実相山宗蔵寺」と名乗る。

江戸時代、寛政から、文化、文政の頃に、宗蔵寺は、この辺りの臨済宗寺院の中心的な存在となり、用吉の久昌寺、八浜の蔵泉寺、八浜の養泉庵、宇多見の大雲寺、碁石の普門院を、組下とする。

本堂は、安政年間に建てられたもの。

 

こちらから、中に、入ります。

 

左手には、このような綺麗な建物が。

こちらの方に、歩きます。

 

少し進むと、このような感じ。

先に見える小さな門を抜ける訳ですが、その前に、左手に、このようなものがありました。

 

「蘇民山」と、書かれています。

 

ネットで調べると、「蘇民」とは、「蘇民将来」という人物に関するもののようですね。

民話の中では、竜宮城の行く牛頭天王を、家に泊めたとで、その後、幸せに過ごすことになる。

牛頭天王は、悪を追い払う神様。

そして、この蘇民の人たちは、代々、「蘇民将来」と書いた木を身に付け、幸せに暮らしたということ。

ちなみに、「備後国風土記」には、「スサノオ」が、家に泊ったことになっている。

 

この「蘇民将来」の護符は、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神だそう。

しかし、「蘇民山」とは、何でしょう。

 

さて、小さな門を、通ります。

 

ありました。

本に掲載されている写真と比べると、恐らく、これが、「六十六部」の「廻国供養塔」です。

中央にあるのが「宝篋院塔」で、左右に建つのが「五輪塔」だと思います。

そして、「廻国供養塔」になるのは、中央にある「宝篋印塔」です。

 

ちなみに、「宝篋院塔」は、中国から伝わったもので、日本では、鎌倉時代から、製作が始まるそうです。

この「宝篋院塔」を「右旋礼拝」すると、加持があるということ。

この「宝篋院塔」の形式には、地域、時代によって、差があるそう。

 

ちなみに、左右にある「五輪塔」ですが、これは「五輪卒塔婆」とも呼ばれ、インドが発祥という話もありますが、今は、日本で考案されたものだろうというのが、有力だそうです。

平安時代末期から、製作が始まったそう。

 

さて、この「宝篋印塔」、「五輪塔」、共に、刻まれているのであろう文字は、見つけることが出来なかった。

しかし、本によると、「宝篋印塔」には、天正5年(1577)の年号があるそうです。

戦国時代ですね。

 

ちなみに、宇喜多直家が、浦上宗景を、天神山城から追い落として、備前国の覇者となったのが、天正3年(1575)のこと。

松永久秀は、この天正5年(1577)に、織田信長によって、信貴山城を落とされて、自害。

そして、天正6年(1578)には、上杉謙信が、亡くなる。

そういった時代です。

 

この「廻国供養塔」は、県内にある、多くの「廻国供養塔」の中でも、最古のもの。

しかも、多くの「廻国供養塔」が、江戸時代に建てられたものであって、この宗蔵寺の「廻国供養塔」だけが、飛び抜けて、古い。

 

この宗蔵寺の「廻国供養塔」「宝篋院塔」は、中世の雰囲気を、よく留めているそう。

近世になると、「宝篋印塔」は、見た目は、もっと大きく、派手になる。

この「宝篋院塔」による「廻国供養塔」は、様々な「廻国供養塔」の中では、最も、お金のかかったもの、と、言うことになるそうです。

 

岡山県下で、宝篋院塔による廻国供養塔は、18基が、確認されているそう。

県内の廻国供養塔の確認事例の中の、約3パーセントを占める。

寺院の境内に建てられているものが多いということで、やはり、資金力のある、寺の僧侶が、「六十六部」の廻国を終えたことを記念して、建てられたものなのでしょう。

 

やはり、実際に、廻国供養塔、宝篋印塔に刻まれた文字が、読みたかったところですね。

 

戦国時代に、日本全国、「六十六部」を回るというのは、大変なことだったのではないですかね。

なぜ、その時、そのような旅に、出たのでしょう。

やはり、世の中の平和を願って、と、言うことになるのでしょうかね。

 

下の台座の石には、「安骨塔」と書かれているようなので、やはり、お墓、と、言うことになるのでしょうかね。

お花も、供えられていました。

この宗蔵寺の僧が、「六十六部」の廻国を終えた後、この寺に戻り、亡くなったのか。

それとも、他国の「六十六部」の廻国業者が、このお寺の近くで、廻国の途中で亡くなり、ここに葬られたのか。

 

さて、この「六十六部」の「廻国供養塔」ですが、岡山県内では、旧備前国には、比較的、他の地域に比べると、数が少ない、と、言うことになるようです。

それは、恐らく、備前国では、日蓮宗の勢力が強かったから、と、言うことになる。

 

日蓮宗は、排他的で、その門徒は、この「六十六部」の廻国業者に対して、食物や金銭を提供したり、家に宿泊させたりする接待を、拒否していたそうです。

やはり、備前国でも、そうだったのでしょうかね。