一遍と、時期を同じくして、一遍と同じように、日本各地を遊行し、念仏を勧め、踊念仏を主催していた人物が居ます。

それが、「一向俊聖」という聖です。

 

この「一向俊聖」という人物には、以前から、関心を持っているのですが、この「一向俊聖」個人をテーマにした本ということは、これまで、見かけたことがない。

そして、この本に、この「一向俊聖」という人物について、やや、詳しい話がありました。

 

 

以下、私見も交えながら、この本を元に、「一向俊聖」について。

 

この「一向俊聖」については、その生涯は、伝説的で、史実としては、どうも、よく分からないというのが実状のようですね。

そのため、かつては、実在が疑われていたということのよう。

しかし、確かな史料から、「一向俊聖」という人物が、実在していたということは、疑いのないことのようです。

 

どこまでが史実なのかということは置いておいて、まず、一向俊聖という人物の生涯について。

 

一向俊聖は、暦仁2年(1239)1月、筑後国竹野荘西好田に生まれる。

一遍が生まれたのも、この年で、二人は、同じ年に、この世に生まれたということになる。

 

父は、草野永泰。

兄の草野永平は、法然の弟子、聖光に帰依し、善導寺を建立したと言われている。

 

一向俊聖は、寛元3年(1245)、天台の僧となるため、播磨国の書写山で、出家。

この時、俊聖と名乗る。

しかし、ここでの修業では、納得が行かなかったようで、新たな法を学ぼうと、建長6年(1254)、南都(奈良)に移る。

しかし、南都での様々な寺での修業でも、思うような教法に出会うことが出来ず、「聖道門」(修業による自力救済)の教えに、疑問を持つ。

そして、「浄土門」に関心を持ち始めた頃、道綽の記した「安楽集」に出会い、「浄土教」を学ぶことを決心。

俊聖の兄、草野永平が帰依した聖光の弟子、良忠に師事しようと、鎌倉に向かう。

 

この良忠は、法然の孫弟子に当たる人物。

ちなみに、一遍が学んだ聖達も、法然の孫弟子になる。

 

良忠の下で、15年の修業を続けた俊聖は、一つの思いに達する。

それが「一向専修」というもの。

この「一向専修」とは、「無量寿経」の中にある一文「一向にもっぱら無量寿仏を念ず」から来たもの。

つまり、「理論や教えに頼ることなく、ただ、一向に、念仏を唱えるという行を修すれば良い」というもの。

そして、この時から、「一向」と名乗る。

 

そして、文永10年(1273)2月、一向俊聖は、念仏を広めるために、日本全国、遊行の旅に出る。

この時、35歳。

 

一遍、一向、共に、「念仏」を広めるために、全国を遊行する訳ですが、両者の教えには、違いがあります。

 

一遍は、様々なものに寛容で、どのような神仏を信仰しようが、あまり気にしなかったようですが、一向俊聖の思想は、「ただ、阿弥陀仏だけを信仰する」という教えだったようです。

また、一遍は、念仏札を配る「賦算」というものを行っていましたが、一向俊聖は、ただ、念仏を人に勧めるだけで、賦算は、行っていない。

また、一向俊聖は、「念仏」以外の行を、徹底して排除したそう。

 

一向俊聖は、各地を、遊行する中で、一遍と同じように「踊念仏」を主催したようです。

この一向俊聖が行った「踊念仏」は、どのようなものだったのか。

確かな史料が無いので、具体的なことは、よく分からないようです。

 

しかし、当時、この「踊念仏」を批判した文章を残した人や、「踊念仏」や、一遍の時宗を批判した内容を含む「天狗草子」という絵巻を見ると、当時の「踊念仏」は、「歓喜に包まれ、我を忘れて、人々が、踊り狂う」といった雰囲気を持っていたようですね。

男女ともに、衣服が乱れ、裸に近い格好になっても気にしない。

頭を振り、足を踏みならし、激しく、踊り狂う様子は、狂人のようだと非難をされているようです。

 

かつて、この「天狗草子」は、一遍の時衆ではなく、一向俊聖の一向衆の「踊念仏」を批判したものと言われていたようですが、ネットの情報では、今では、やはり、一遍の時衆を批判しているということで、間違いないということのようです。

しかし、恐らく、一遍の時衆の「踊念仏」も、一向俊聖の「踊念仏」も、「人々が、歓喜の中で、踊り狂う」という様子は、一致をしていたのではないでしょうか。

だから、一遍にしろ、一向俊聖にしろ、批判をする人は、多かったよう。

 

一遍の信者を「時衆」、一向俊聖の信者を「一向衆」を読んだそうですが、外から見れば、していることは変わらないので、「一向衆」は、「時衆」と混同されることが多かったようです。

 

また、親鸞にはじまる「浄土真宗」は、「一向衆」と混同されることになります。

 

親鸞にはじまる「浄土真宗」は、室町時代、「蓮如」という人物の登場で、一気に、勢力を拡大します。

この時、一向衆の門徒の多くが、浄土真宗に吸収されたそうで、恐らく、浄土真宗の門徒になった後も、自分のことを「一向衆」だと言う門徒が、大勢、居たのだろうと想像します。

 

なぜ、一向衆が、浄土真宗に吸収されて行ったのか。

 

そもそも、一向俊聖の「阿弥陀仏だけを信仰する」「念仏以外の行を排除する」という思想は、親鸞の思想に近い。

違いといえば、「踊念仏」をすること、「遊行」をすること、と、いった程度。

そのため、一向衆の門徒は、何の抵抗もなく、浄土真宗の門徒になったのではないでしょうか。

 

また、一向衆の中には、「時衆」に吸収される者も多かった。

これは、「遊行」「踊念仏」という共通点があり、外からは、区別をすることが難しい。

そのため、一向衆から、時衆になることにもまた、あまり、抵抗はなかったのではないでしょうか。

 

ちなみに、浄土真宗の側では、門徒が、自分たちのことを「一向宗」と呼ぶことを、度々、禁止しているようです。

度々、禁止をしているということは、浄土真宗門徒が、「自分は、一向宗だ」と言っていることが多かったということ。

しかし、何度、禁止をしても、それは、無くならなかったようで、最終的には、浄土真宗の側でも、「一向に念仏をすることが浄土真宗なのだから、一向宗と言っても、構わない」という態度を取るようになります。

これが、文明6年(1474)くらいのことのよう。

 

こうして、一向俊聖にはじまる「一向宗(衆)」は、衰退をする。

 

ちなみに、一向俊聖が亡くなったのは、弘安10年(1287)11月。

 

一向衆は、礼智阿という人物が、後を継いだそうです。

 

江戸時代、幕府の仏教政策により、一向俊聖の法灯を継ぐという「一向派」「天童派」は、「時宗十二派」の中に含まれることになります。

当然、度々、時宗からの独立を求める運動をしたそうですが、それは、認められなかったということ。

 

さて、問題は、上に書いた「一向俊聖」の人生の、どこまでが史実なのかということ。

 

やはり、同時代史料が少なく、よく分からないということになるのでしょうかね。