さて、この本から。私見も交えながら。
一般的に、「踊念仏」と言えば、一遍と結びつきますが、この「踊念仏」をしていたのは、これまでも書いた通り、一遍だけではない訳で、なぜ、現在、「踊念仏」と言えば、「一遍」という認識になったのか。
それには、「一遍聖絵」の影響が大きかったのではないかと思います。
この「一遍聖絵」は、一遍の死後、十年に制作をされたもの。
製作をしたのは、一遍の弟と言われる聖戒という人物で、一遍と親しい間柄、しかも、一遍の死後、それほど、遠くない時期に製作されたもので、内容は、かなりの部分、正確かと思われる。
もっとも、この「一遍聖絵」は、一遍を顕彰する意味合いもあったのでしょうから、一遍を、美化、神格化する面もあるのでしょう。
そして、現在、この「一遍聖絵」は、国宝に指定されている訳で、とても、素晴しく、有名なもの。
この「一遍聖絵」の中では、「踊念仏」が印象的に描かれている。
そのために、一遍といえば「踊念仏」、「踊念仏」といえば、一遍、のイメージが、定着をしてしまったのではないでしょうか。
さて、一遍が、最初に、「踊念仏」を行ったのは、弘安2年(1279)、信濃国伴野荘で、自然発生的に始まったのですが、この「一遍聖絵」を見ていくと、一遍の率いる時衆が行う「踊念仏」が、次第に、形式が整っていく様子が分かるそうです。
当初、何も無いところで、人々が、思い思いに踊る様子が描かれている「踊念仏」が、次第に、専用の舞台を建設し、その中で、人々が、規則正しく「踊念仏」を行っている様子に変化をして行く。
その後は、周囲の人から、「踊念仏を見せて欲しい」をいう要請を受けて、一遍は「踊念仏」を行うようになる。
つまり、最初、時衆の人々は、「念仏を唱えれば、極楽浄土に往生できる」という喜びから、感情の高まりと共に、思い思いに、好きなように、身体を動かし、踊っていたのでしょうが、それが、次第に、決められた場所で、ルールに従って、踊るようになる。
これは、「踊念仏」が、「幸せの感情表現」ではなく、「見世物」に変化をして行ったということ。
恐らく、これは、一遍が、意図して、行ったことでしょう。
一遍は、この「踊念仏」が、人を集めるのに、格好の「見世物」になると気がついた。
そこで、次第に、「踊念仏」のルールを整えて行ったのではないでしょうか。
そして、「踊念仏」を行うための舞台を作る職人もまた、時衆の中に、加わったのでしょう。
一遍の思惑は、的を射ていた。
一遍が主催をする「踊念仏」には、老若男女、貴賤を問わず、多くの人が、見物に集まった。
その様子もまた、「一遍聖絵」に、よく描かれている。
なぜ、一遍は、そのようなことをしたのか。
それは、「賦算」をするためでしょう。
なぜ、一遍が、日本全国を歩き回っていたのかと言えば、それは、「賦算」をするためです。
「南無阿弥陀仏・決定往生六十万人」
と書かれた札を、出来るだけ、多くの人に配る。
それが、一遍の遊行の目的です。
出来るだけ多くの人に、賦算をすることで、出来るだけ多くの人に、念仏と結縁してもらう。
これは、「融通念仏」と呼ばれるもので、念仏と結縁する人が、多ければ多いほど、その念仏の効果は、大きくなる。
一遍は、それを目指していた。
そして、「踊念仏」と共に、遊行を続ける一遍は、世間で、大評判となり、一遍自身、神格化されることになる。
一遍の配る念仏札は、「現世利益を与えてくれる」と言われて、人々は、一遍の配る念仏札を奪い合うように欲しがった。
この様子もまた、「一遍聖絵」に描かれている。
これは、「一遍聖絵」の中には、無いと思うのですが、一遍の尿が、「万病に効く」ということで、人々は、一遍の尿を欲しがったということ。
実際に、一遍が、自分の尿を配ったということは無いでしょう。
いわゆる超常現象のようなものは、一遍自身、否定をしているようですから。
一遍は、正応2年(1289)7月、播磨国で亡くなります。
享年、51歳。
実は、一遍は、自分の教団を残すという考えは、ありませんでした。
「自分の行ったことは、自分一代で終わり」
あらゆるものを「捨てる」ことで、「無」に帰る。
そのため、一遍は、「捨聖」とも呼ばれた訳ですが、自分の「教え」も、自分が率いた「時衆」も、全ては、自分の死と共に「無」に返すつもりだったのでしょう。
しかし、一遍の死後、弟子の「他阿」という人物が、時衆を率いて遊行を続け、一遍の教えを引き継ぐことになる。
ここに「時宗」が、始まります。
もちろん、時宗教団の中にも、「踊念仏」は、受け継がれた訳で、やはり、その始祖としての一遍と、時宗の「踊念仏」のイメージが結びついたのかも知れない。
もしかすると、こちらの方が、強いのかも。