念仏を唱えながら踊る「踊念仏」というものを、知っているでしょうか。

世間一般では、恐らく、この「踊念仏」を始めた人として、「一遍」という僧が、知られていると思います。

 

一遍の人生を記した「一遍聖絵」によると、一遍が、最初に「踊念仏」を行ったのは、弘安2年(1279)、信濃国佐久郡伴野で、「紫雲」が発生。その後、小田切の里にある武士の館で、一遍が、踊り始め、そこで「踊念仏」が始まった、と、書かれている。

しかし、この「一遍聖絵」には、同時に、「をどり念仏は、空也上人、或いは市屋、或いは四條の辻にて始行し給けり」とも書かれていて、当時、この「踊念仏」は、空也が始めたものだという伝承があったと思われる。

 

では、本当に、空也が始めたものなのかと言えば、確かな史料には、空也が、「踊念仏」を行っていたと記されたものは無いということ。

 

この「踊念仏」については、昔から、色々と、疑問を持っていて、本屋で、この本を見つけて、購入し、読んでいるところ。

なかなか、面白い。

 

 

この「踊念仏」についての大きな疑問は、「なぜ、念仏を唱えながら、踊るのか」ということ。

念仏を唱える。踊る。

この二つの行動が、なぜ結びつくのかというのが、どうも、よく分からない。

 

そもそそも、人は、なぜ、「踊る」のか。

もちろん、娯楽の一環として、「踊る」こともあるでしょう。

しかし、「踊る」という行為の重要なところは、かつて、それが、「神に捧げる行為だった」ということ。

 

つまり、神を喜ばせるために踊る。

例えば、作物の豊作を願う時など、そうでしょう。

これは、後に、田楽などに発展する。

 

また、神の怒りを、鎮めるために踊る。

これは、自然災害などを治めるためなど。

例えば、干ばつや、風雨の害、地震や津波や、火山の噴火、などなど。

 

もう一つ、「死者の霊に、捧げるため」に、踊る。

 

かつて、死者の霊は、現世に、絶大な影響を及ぼすと考えられていた。

その死者の霊が、現世に、禍を起さないように、人は、「踊る」ことによって、その霊を、慰めた。

 

そして、古代社会では、この「神」や「霊」に捧げるために「踊る」ことを専門にする人たちが登場する。

彼らは、「遊部」(あそびべ)と呼ばれたそう。

彼ら「遊部」は、古代社会で、神に対する儀式や、死者に対する儀式の中で、「踊り」を披露する。

 

しかし、この「遊部」は、そのうち、姿を消すことになる。

なぜか。

それは、飛鳥時代に、「仏教」が、輸入されたこと。

 

神(または、仏)に対する儀式、そして、死者に対する儀式を、この仏教の僧たちが、担うようになって行く。

つまり、「遊部」は、無用となり、消えて行ったのでしょう。

 

しかし、専門職としての「踊る」は、無くなって行ったが、当然、民衆の中には、「神のために踊る」「死者のために踊る」という行為は、残った。

民衆は、機会があれば、「踊り」を、集団で、踊ったことでしょう。

 

さて、次は、「念仏」について。

 

飛鳥時代に、「仏教」が輸入され、それは、次第に、在来の神を吸収して行く。

 

この「仏教」の中でも、「念仏」に関係があるのは「阿弥陀仏」そして「浄土」です。

 

この「念仏」と言えば、平安時代末期に登場した「法然」に始まる「専修念仏」を、まず、思い浮かべますが、実は、それ以前から、「念仏」を唱えるという修行は、存在をしていました。

それは、比叡山の天台宗でも、奈良(南都)の諸派の仏教でも、同じこと。

 

しかし、この「念仏」を唱えることは、「自分自身が、極楽浄土に行く」ことを願って行うものというイメージがありましたが、上の本によると、かつて、この「念仏」を唱えるという行為は、「すでに亡くなった人への作善」という意味が強かったようですね。

つまり、「念仏」とは、「死者の魂が、あの世で、安寧で居られるため」に、唱えるもの。

 

しかし、ここで、一つの問題がありました。

 

それは、この「仏教」とは、「国家」のものであり、貴族などの「特権階級」のものだったということ。

つまり、一般庶民には、「仏教」は、縁の無いものだった。

当然、「念仏」にも、一般庶民は、縁が無い。

 

ここで、登場するのが「空也」です。

 

空也は、延喜3年(903)に生まれます。

空也の青年期から、壮年期にかけて、あの「承平、天慶の乱」が勃発。

関東では、「平将門の乱」、瀬戸内では、「藤原純友の乱」が起こり、世情は、混乱。

この時期の日本は、「律令国家」から「王朝国家」への転換期で、大規模な地方での反乱や、群盗や海賊が各地に出没し、民衆は、大きな不安に陥っていたことでしょう。

 

空也は、そのような世情の中、日本各地を歩き、修業をし、作善を行い、民衆の支持を得て行きます。

その土地の民衆のために、橋を架け、井戸を掘り、道を作ります。

放置された遺体を集めて、焼き、念仏を唱える。

そして、民衆たちにも、「念仏」を唱えることを勧めた。

 

ここで、一般庶民は、初めて「念仏」というものに触れることになったのでしょう。

 

そして、この「念仏」が、「死者の霊を、慰め、浄土に送るためのものだ」と知った民衆は、恐らく、死者のために「踊る」という行動をしながら、「念仏」を唱えたに違いない。

 

空也に勧められた「念仏」を、その場で唱えながら、空也の前で「踊る」ということもあったはず。

 

この辺りが、「踊念仏を始めたのは、空也である」という伝承が生まれた背景なのではないでしょうか。

 

そして、その後、空也の後継を自称する「念仏聖」たちが、空也の後、日本各地を歩き、「念仏」を勧めることになる。

当然、「念仏」を唱えながら、「踊る」という人たちも、各地に出現をしたことでしょう。

 

この辺りが、「踊念仏」の始まりのよう。

 

つまり、空也が、意図して「踊念仏」を始めた訳ではないのですが、空也の活動をきっかけに「踊念仏」は、生まれたということになるのではないでしょうかね。