今朝の藤井海岸。
かわいらしい船が、左に向かって、航行中です。
時折、見かけますが、何をする船なのでしょう。
さて、前回の「廻国供養塔」に関する話の続き。
昨日、東田井地の「六十六部」の「廻国供養塔」を見て、どうも、気になることが、いくつか。
まずは、「なぜ、墓石が、破損しているのか」ということ。
この東田井地の廻国供養塔は、「墓」と文字が刻まれているので、「お墓」なのでしょう。
しかし、なぜか、このお墓の墓石が、破損をしている。
なぜ、お堂の中にある墓石が、破損をしているのでしょう。
そもそも、墓石が、お堂の中にあるということ自体が、不自然ですよね。
普通、「お墓」というものは、野ざらしであるはず。
この「廻国供養塔」も、元々は、野ざらしの「お墓」だったのではないでしょうかね。
しかし、何らかの理由で、墓石が、破損をしてしまったので、周囲に「お堂」を作り、墓石を、守ることにした。
そういう経緯なのではないでしょうか。
もし、この推測が、妥当なものだとすれば、この「廻国供養塔」「お墓」は、地域の住民から、特別な信仰を受けていたと考えられる。
そうでなければ、わざわざ、お堂を作って、お墓を守ろうとはしないでしょう。
やはり、何らかの理由で、「六十六部」の廻国者が、この地で、「入定」したのではないでしょうか。
だから、地域の人が、この「お墓」を、大切に守ろうとしたのだろうと思います。
もう一つの疑問は、この「廻国供養塔」に対峙するように「神変大菩薩」つまり「役小角」の像が、置かれていること。
これは、何を意味しているのでしょうか。
この「神変大菩薩」の台座の石には、「嘉永3年」の年号があったようなので、この時に、置かれたものだとすれば、幕末ということになる。
この像が、村の集落の方ではなく、廻国供養塔の方を向いているところからすると、この像と、廻国供養塔とは、一つのセットと認識して良いものと思います。
そして、「神変大菩薩」つまり「役小角」は、「修験道」の開祖と言われる。
つまり、幕末期、この廻国供養塔のお墓に葬られている人は、「修験道」の修行者、つまり、「修験者」という認識があったのではないでしょうか。
お墓に「六十六部」と刻まれているので、葬られている人は、「六十六部」の廻国者だったと見て、間違いは無いのでしょう。
日本全国を回って修業をしている「修験者」が、「六十六部」として認識をされたのか、それとも、実際に、修験者が「六十六部」を廻国していたのか。
以前、ある本に、興味深い話が、ありました。
それは、戦国時代、日本に布教に来たキリスト教の宣教師が、一人の修験者が、多くの人たちが見守る中で、民衆の救済のために、自ら、命を絶つ様子を目撃し、「自分には、あのようなことは出来ない」と記録を残している、と、言うもの。
修験者が、なぜ、厳しい修行をしているのかと言えば、それは「神通力」を得るため。
そして、なぜ、修験者が、「神通力」を得ようとするのか。
それは、その「神通力」で、民衆を救うため、です。
民衆が、苦しみのどん底にあると認識をした時、その使命感の強い修験者が、自らの命と引き換えに、民衆の救済を求めるという光景は、恐らく、日本の各地で、見られたことなのではないでしょうか。
そして、もしかすると、東田井地に残されている廻国供養塔も、「六十六部」の廻国をしていた修験者が、地域の人の窮状を見て、この地で、「入定」をすることを決意し、実行したのかも知れない。
しかし、それが事実だったとすれば、地域に、その伝承が残っていないというのが、疑問。
なぜ、「入定」の伝承が、地域に、残らなかったのか。
可能性の一つとしては、やはり、その伝承を知っている人が、長い年月の間に、子孫に伝わらず、絶えてしまったということ。
何らかの事情で、伝承が、子孫に伝わらないということは、日本全国で、多くあったことなのではないでしょうかね。
幸い、ここには、墓石があるので、その痕跡が残ったということになる。
現代でも、これだけ、手厚く、この墓石が守られているのですから、過去に、何も無かったとは考えられないと思います。
もちろん、以上は、素人の勝手な推測です。
ここで、何か、特別なことがあったはず。
その伝承が無いというのが、残念なところです。