今日は、早速、玉野市で確認されている二つの「六十六部」の「廻国供養塔」のうちの一つを、見に行ってみました。
朝は、雨が、パラパラとしていたのですが、晴れて、良かった。
場所は、胸上小学校の近くにある溜め池、田淵池の側。
左に見える水面が、田淵池。
正面の右側に、廻国供養塔があります。
こちらは、視線を左に移したもの。
こちらは、同じ場所から、振り返った景色。
良い景色です。
池に沿って、東に、道を歩くと、このような場所があります。
お地蔵さんが、三体、手前にありますね。
上には、背を向けた、何かの仏様が。
ここを、上がります。
背中を向けていた仏様が、こちらです。
何か、文字が書かれていますが、これは「神変大菩薩」と書かれているよう。
ネットで調べて見ると、この「神変大菩薩」とは、「役小角」のこと。
役小角は、修験道の開祖と言われ、様々な超能力を発揮した伝説的人物。
寛政11年(1799)、役小角の没後、1000年に、朝廷から「神変大菩薩」の名前を与えられたそうです。
ちなみに、台座の石には、「嘉永3年」の年号がありました。
しかし、それほど、古いものには、見えない感じです。
さて、この「神変大菩薩」の正面にあるのが、「廻国供養塔」です。
このお堂の中に、納められています。
正面の扉には、鍵が掛けられていて、厳重に、管理をされているようです。
正面に、「神変大菩薩」の像が置かれていること。
このような、お堂の中に、納められているところを見ると、恐らく、この「廻国供養塔」は、古くから、この地域の人の信仰を集め、大切にされていたのではないでしょうか。
さて、鍵が掛けられているので、中を見ることは出来ない。
しかし、扉の網越しに、中を覗くと、廻国供養塔が見えました。
それが、こちら。
想像をしていたものよりも、かなり小さいのが印象的でした。
石は、破損していますが「六十六部自入墓」と書かれています。
本によれば、年号は、「享保3年(1718)」とあるそう。
この石には「墓」とあるように、この土地で、「六十六部」の廻国者が亡くなり、ここに墓を建てたものでしょう。
しかも、「自入墓」と書かれていることから、恐らく、この廻国者は、この土地で「入定」したのではないかと思われる。
つまり、自ら、土の中に埋められ、命を絶ったということ。
しかし、その場合、廻国者が、何時、どのような理由で「入定」したのか。
その伝承が、土地に残る訳ですが、なぜか、この土地には、そいう伝承は、残っていないそうです。
その点は、少し、不思議なところ。
さて、江戸時代の中期から後期にかけて、多くの一般庶民が、この「六十六部」の旅をしていたと考えられるのですが、理由は、何だったのでしょう。
推測をすると、一つは、「経済的に余裕がある、裕福な人の物見遊山の代わり」という目的があったのではないでしょうか。
江戸時代には、「伊勢参り」や「富士講」などが、一般庶民の人気となり、多くの人が、旅に出たよう。
僕の住んでいる近辺では、倉敷の由加山や、香川の金比羅さんにも、多くの人が、参拝のための旅行をしていた。
これらには、観光旅行のような意味もあったのだろうと思います。
そして、一つは、何か、重大や「懺悔」や「後悔」を抱えている人が、「六十六部」の旅に出たのだろうと思います。
これは、もしかすると、今でも「四国八十八カ所」を巡る人の中に、こういう人が、居るのかも知れない。
やはり、個人的な懺悔や後悔を癒やすために、神仏に頼るのは、人間の心の性質。
そして、もう一つは、「生まれ、育った土地で、生活をして行くことが出来ない人」たちが、「六十六部」の旅に出た。
当時の一般庶民には、物見遊山の旅に出ることが出来るような裕福な人も居れば、食べることに困るような貧しい人も、たくさん居た。
何らかの理由で、生まれた土地に住めなくなった人たちが、旅に出る。
そういう、切羽詰まった人も、大勢、居たはず。
こちら、江戸時代の「六十六部」の廻国者の姿。
背中に負っているものの中には、地蔵が入っています。
こういう人たちが、大勢、日本を歩いていた。
ちなみに、こちらは、幕末か、明治初期、外国人に売るために取られた写真のよう。
恐らく、これは、「職業六部」の姿でしょう。
外国人に売る日本の土産として「六十六部」の写真があるということは、やはり、「六十六部」は、当時、日本を代表する文化の一つだった、と、言うことではないでしょうかね。