日本で「巡礼」と言えば、「四国八十八カ所」が有名ですよね。

今でも、四国八十八カ所は、巡礼をする人が多いものと思います。

そして、日本の中には、この「四国八十八カ所」の他にも、寺社を巡る「巡礼」は、数多くあるものと思います。

ちなみに、僕が住んでいる玉野市でも「児島八十八カ所」という巡礼コースが、江戸時代から存在している。

そして、この「巡礼」の中で、日本で最大規模で、しかも、かなりの隆盛を見せていたと思われるのが、「六十六部」と呼ばれるもの。

この「六十六部」の巡礼を、岡山県に存在する「廻国供養塔」から、紹介、解説した本が、こちら。

 

 

この「六十六部」とは、日本で最大の巡礼で、平安時代から、江戸時代の終わりにかけて行われていたもの。

かつて、日本は「六十六」の国から成り立っていた。

北は、陸奥国、出羽国から、南は、薩摩国、大隅国まで、それぞれ、一つの国に、一つの「大乗妙典」つまり「法華経」を納めることを目的に行われたのが「六十六部」です。

つまり、日本全国で、法華経を、「六十六部」、納めることになるのが、語源。

江戸時代になると、この「六十六部」は、「日本廻国」とも呼ばれるようになる。

 

この「六十六部」に関する史料として、古くは、鎌倉時代の「納経請取状」が、二通、残されている。

伊賀国と安房国に残っていたもので、二通は、似たような書式を持ち、すでに、この「六十六部」が、社会に浸透していたことが分かる。

南北朝時代には、「版刷り」の納経受取状が登場し、「六十六部」の実践者が、かなり増加していたことが分かる。

室町時代後期、安土桃山時代には、その時代の廻国者たちが使った「経筒」が、300個以上、発見されている。

この「経筒」とは、経典を納めるための筒。

廻国者たちは、この経筒の中に、法華経8巻を写経したものを入れて、訪れた寺社に、それを奉納することになる。

 

ちなみに、一国につき、一つの寺社に、経典が収められることになりますが、どの国で、どの寺社に納めるのかということは、決まってはいなかったということ。

しかし、多くの人が、納経をしている特定の寺社というものは、国により、存在をしていたよう。

 

実は、13世紀から16世紀頃まで、この「六十六部」を行っていたのは、「聖」と呼ばれる人たちで、この「聖」たちが、旦那から、祈願と資金を託されて、諸国を巡り、法華経を奉納していたと考えられる。

ちなみに、「聖」と呼ばれるのは、各地を歩き、遊行をしている僧や修験者のこと。

平安時代の中期の仏教説話集には、各地を遍歴しながら修業をする法華経信仰の行者である「持経者」と呼ばれる人が、多数、登場し、彼らが、後に「六十六部」になったというのが、有力な説だそうです。

 

この「六十六部」巡礼の最盛期は、江戸時代の中期から、後期にかけて。

この頃になると、僧や、修行者だけではなく、一般庶民も、かなりの数が、この「六十六部」巡礼を行うようになったと考えられる。

この頃には、「納経」の方法も変わり、写した法華経を寺社に納めるのではなく、寺社で読経をするとか、単に、参拝をすることで「納経」と称していた。

また、簡易な木版摺りの小さな経を納めることもあったよう。

また、かつては、一国につき、一つの寺社を選んで、納経をしていたものが、元禄の頃から、持参した帳面に請取を記入してもらう「納経帳」が登場する。

この、廻国者の残した納経帳を見ると、一国の中で、いくつもの寺社に「納経」をしていることが分かる。

つまり、「一国につき一つの寺社に法華経を納める」という本来の目的は形骸化し、日本各地の寺社を、ひたすら、巡り歩く巡礼に変わっていたと思われる。

 

また、「六十六部」の信仰も、「法華経信仰」から、「阿弥陀信仰」「地蔵信仰」に変わって行ったようで、廻国者は、地蔵を背負い、鐘を叩き、念仏を唱えながら歩くようになる。

また、「六十六部」を生業とする、「職業六部」が、登場。

そのため、中世の「六十六部」と、近世中期以降の「六十六部」は、かなり、別物と考えられる。

 

この「六十六部」については、文献史料が少ないようで、実態には、よく分からないことも多いよう。

そこで、この「六十六部」の研究材料になるのが、「廻国供養塔」です。

 

日本全国には、この「六十六部」の「廻国供養塔」が、数万基、存在すると推定されるそうです。

2024年9月の調査では、1万6千件余りの廻国供養塔の情報が確認されたそうで、調査の進展状況から、これは、恐らく、全体の数分の一と考えられるということ。

この「六十六部」に関連する石造物が出現するのが、鎌倉時代の末期から。

その頃には、ある程度の廻国者が居たことが分かる。

そして、この廻国供養塔の数が、急増するのが、江戸時代の中期から、後期にかけて。

この頃に、廻国供養塔の数が増えるのは、世情が安定し、交通インフラも整い、庶民も豊かになり、廻国巡業に、一般庶民も、出かけられるようになったこと、そして、廻国供養塔の建立を、多くの庶民が行えるようになったことが考えられる。

 

この「廻国供養塔」には、外観に、様々なものが存在する。

そして、共通するのは「六十六部」もしくは「(日本)廻国」の文字が刻まれ、その上に「奉納大乗妙典」の文字が加わるのが主文。

その左右には、「天下泰平・国家安穏」または「天下和順・日月清明」の文字が刻まれていることが多い。

 

また「廻国供養塔」の建立の目的にも様々なものがある。

 

まず、「六十六部」の巡礼が終わったことを記念して建てられたもの。これには、「満願」「成就」などの文字が刻まれている。

 

また、何らかの理由で、「六十六部」の巡礼の途中で、建立されたもの。

これには、「中供養」という文字が、刻まれる。

なぜ、巡礼の途中で、廻国供養塔が建立されたのか。

理由が不明のものも多いそうですが、一つは、廻国者が、途中で亡くなったので、その供養のため。

そして、廻国者が、その巡礼の途中で、何か、地元の人に喜ばれる「作善」を行い、土地の人に、感謝をされたため、と、考えられる。

 

実は、普通の「お墓」の中にも、「六十六部」の巡礼の途中で亡くなったと思われる人のものが確認をされるそう。

その場合、墓石に「日本廻国」や「六十六部」の文字が、刻まれているそうです。

 

また、廻国者が「入定」をしたケースや、「人柱」になったケースも確認できるそう。

この「入定」とは、一般的に、「行者が、衆生済度などの目的を掲げて、自ら、命を絶つこと」を言い、特に、「生きながら、土中に埋められる」ことを指します。

また、「人柱」とは、土木工事の時などに、工事の過程や、その後の安全を願って、「入定」すること。

 

また、「六十六部」の廻国者に対して、「施行」「施宿」を行ったことを記念するものも存在する。

これは、廻国者に、食物を提供したり、自宅に廻国者を泊めたりする行為。

四国八十八カ所の巡礼で、遍路者を、地位住民が「お接待」することは有名ですが、これは、「六十六部」が、盛況だった時代、全国規模で行われていたことということ。

その供養塔には「廻国者を二千人泊めた」「廻国者二千人に米を提供した」などと刻まれている。

また、「廻国者一万人に、物を施した」と刻まれているものもあるそうで、やはり、相当の数の人が、「六十六部」の巡礼に出ていたことが分かる。

そして、廻国者に「施行」「施宿」をすることは、自身が、巡礼することと、同じような意味があった。

 

また、巡礼途中で亡くなった廻国者の廻国供養塔の中には、「霊験、御利益がある」と、土地の住民の信仰を集めるものもあるそうです。

また、路傍で、よく見かける「法界地蔵」の中にも、廻国者が建立したものがあるということ。

 

明治時代に入ると、この「六十六部」の巡礼は、廃れて、無くなって行きます。

一部、「職業六部」と言われる人たちが居ましたが、これも、政府によって禁止され、この「六十六部」の巡礼は、完全に、消滅することになる。

 

日本全国に数万基が存在すると推定される「廻国供養塔」ですが、僕の行動圏内である玉野市、倉敷市にも、いくつもの「廻国供養塔」が存在をするそうで、少しずつ、見学をして回ろうと思っています。

また、本の中で紹介をされていない、新たな「廻国供養塔」が、発見出来ると、嬉しいところです。