映画「ヤングガン」を鑑賞。

公開は、1988年。

 

 

 

この映画が公開された時、結構、話題になったのを覚えています。

主演に、「エミリオ・エステベス」、その弟「チャーリー・シーン」、そして、後にドラマ「24」で、主役の「ジャック・バウアー」を演じることになる「キーファー・サザーラント」など、若手の人気俳優が出演。

テレビで放送された時に、エミリオ・エステベスの吹き替えを、当時、人気俳優だった高嶋政伸さんがすることでも、話題になったはず。

しかし、当時、僕は「西部劇」というものに、全く、関心が無く、映画館で公開された時も、テレビで放送された時も、見ることもなかった。

しかし、その後、ケビン・コスナーが主演をした1994年公開の映画「ワイアット・アープ」を、暇つぶしに見たところ、評判の低さに反して、とても、面白く、良い映画だった。

それで、この、かつて、評判になった映画「ヤングガン」も、そのうち、見てみたいと、ずっと、思っていたところ。

 

 

 

この映画「ワイアット・アープ」は、リアルな雰囲気の歴史物語的な感じの映画でしたが、映画「ヤングガン」は、「昔ながらの西部劇」という印象です。もっとも、僕は、昔ながらの西部劇を見たことがないので、想像からの印象です。

 

エミリオ・エステベスが演じるのは、実在の人物「ビリー・ザ・キッド」です。

西部劇の中でも、最も、有名で、最も、人気のある人物でしょう。

そして、物語は、実際に、あった「リンカン郡戦争」をモデルにしているそう。

もっとも、内容は、かなり、脚色されている。

 

ニューメキシコ州のリンカン郡。そこで、牧場主のジョン・タンストールは、一人の男が、騒動を起して、逃げ回っているのを見つけ、助ける。それが、「ウイリアム」、後の「ビリー・ザ・キッド」です。

タンストールは、ウイリアムを、自分の牧場に連れて行き、他の若者たちと一緒に、生活をさせる。彼らは「自警団」と呼ばれていた。

しばらくは、平穏な日々が続いていたのだが、タンストールは、対立をしていたマーフィーの一味によって、殺害される。

 

このマーフィーの一味は、知事や保安官などと手を組んで、リンカン郡で、勢力を広げていた。

自警団は、タンストールと親しかった弁護士アレックスの勧めで、臨時保安官として、マーフィー一味を逮捕に向かうことに。

しかし、そこで、ウイリアムが、マーフィー一味の一人を射殺。

自警団とマーフィー一味の戦闘となり、自警団は、勝利をするが、自警団は、マーフィーに賞金を掛けられ、追われる立場に。

賞金稼ぎのジョン・キニーもまた、自警団たちの追跡に加わる。

 

この対立の中で、新聞は、自警団のリーダーとして、ウイリアムを「ビリー・ザ・キッド」として報じることに。

実際のリーダーだったチャーリー・シーンが演じるディックは、この対立の中で射殺され、ウイリアムは、自警団の本当のリーダーになる。

仲間割れや、敵との対立で、仲間たちを、次々と失う中で、自警団は、タンストール殺害の実行犯であるブレディ保安官の一味を殺害。

保安官を殺害したことで、自警団は、完全な、お尋ね者となる。

 

自警団は、わずか6人に減っていた。

相手のマーフィー一味は、100人。

 

自警団は、メキシコ国境に向かう。

そこに、ウイリアムの友人だったパット・ギャレットが現れ、「アレックスが、マーフィー一味に殺害されようとしている」と知らせる。

しかし、これは、罠だった。

 

アレックスの家にたどり着いた自警団は、マーフィー一味に包囲され、銃撃戦となる。

騎兵隊も参加し、激しい攻撃を受け、ついに、家は、放火され、自警団は、脱出を試みる。

その中で、ウイリアムは、マーフィーを射殺。

 

この大きな騒動は、大統領の知るとこになり、知事は解任され、リンカン郡戦争は、終結する。

 

と、言う物語。

 

さて、実際の「リンカン郡戦争」は、どうだったのか。

ネットで、調べてみる。

 

当時の「リンカン」は、戦争によって、メキシコから譲渡されたばかりで、州にもなっていなかったそう。

リンカン郡は、その南部の地域で、広大な領地に、数百人の人しか住んでいない状態だった。

人種も、メキシコ人、インディアン、アメリカ人が入り交じり、その中で、二つの勢力が、対立をしていた。

 

一方は「チザム」という大牧場主。伝統的で古風で、素朴な、アメリカ型気質の牧場主。

もう一方は、「ローゼンタール」という、首都に根を張る経済、司法、政治などの権力と癒着をした都会型の精肉販売者。

そして、チザムが、牛肉販売に手を出そうとしたことで、二つの勢力の衝突が起きる。

 

ビリーは、「タンストール」という牧場主に雇われていた。

イギリス人で、秩序を重んじる真面目な男。

リンカンに来て間もないタンストールは、判事や保安官、銀行の頭取などが裏で手を握り、利益を上げるために不正を働いていることを知る。

タンストールは、彼らの不正を、新聞に投書し、暴露する。

このタンストールの行動は、町の権力者や利権と結びついていたローゼンタール派の怒りを買うことになる。

 

ローゼンタール派は、判事や保安官と協力し、タンストールの行動を偽証として、追放処分とする。

更に、ローゼンタール派は、配下のドラン一味に、タンストールの殺害を依頼。

タンストールは、殺害をされてしまう。

 

このタンストール殺害をきっかけに、ローゼンタール派と敵対をしていたチザムは、タンストール派を支援することに。

ビリーは、タンストール派の一人として、ドラン一味と、激しく、対立をすることに。

 

タンストール派と、ドラン一味の報復合戦が続き、ついに、ドラン一味は、タンストール派を全滅させるため、40人の部下を集め、タンストール派の拠点だった間クスウィーンの屋敷を包囲。

その屋敷に立てこもるのは、ビリーを始め、17人。

激しい銃撃戦が続くが、決着がつかない。

5日目に、ドラン一味は、騎兵隊に援軍を要請。騎兵隊は、大砲や、ガトリング砲を装備していた。

ビリーたちは、不利な状況となったが、説得に応じることなく、銃撃戦を続ける。

そして、夕刻、屋敷に、火がつけられる。

ビリーたちは、それでも、銃撃戦を続けたが、夜になり、脱出を決意。

ビリーを始め、タンストール派の生き残りは、姿を消した。

 

この物語の主人公「ビリー・ザ・キッド」について。

 

ビリー・ザ・キッドは、本名を、ヘンリー・マッカーティ、母の再婚後、ヘンリー・アントリムと言った。

父親も、出生地も、諸説あって、よく分からない。

15歳の時に、母親が亡くなり、家を出る。

その後、アウトローとして、各地を放浪。

その時に、ウイリアム・H・ボニーと名乗り、この名前が、墓にも刻まれている。

 

アリゾナ、テキサス。メキシコ国境で、牛泥棒、強盗、殺人を重ねる。

そして、リンカン郡で、タンストールの経営する売店の用心棒に雇われたことで、リンカン郡戦争に巻き込まれることに。

 

その後、1880年、かつて、友人でもあった保安官の、パット・ギャレットによって、仲間と主に、逮捕。

1881年4月18日に、刑務所を脱走するが、7月14日、ニューメキシコ州フォートサムナーで、ギャレットによって、射殺される。

 

さて、この「ビリー・ザ・キッド」が、なぜ、人気なのか。

 

どうも、後世に「義賊」として宣伝されたことが元になっているようですね。

つまり、アウトローではあるが、実は、正義の味方。

これは、庶民の好むところでしょう。

 

しかし、これは、恐らく、ビリー・ザ・キッドの、本当の姿ではないはず。

数多くの、ビリーの逸話は、恐らく、ほとんどが、後世の創作なのではないでしょうか。

 

射殺をされた時、21歳ということ。

ビリーが、生涯で、何人を殺害したのかというのは、正確なところは、よく分からないようです。

 

ちなみに、こちらが、ビリー・ザ・キッドの写真。

 

そして、2015年。

ビリー・ザ・キッドの写真が、新たに発見をされた話題になりました。

当時、新聞で、記事を読んだのを覚えている。

その写真が、こちら。

 

左に立つのが、ビリー・ザ・キッド。

二人は「クロッケー」という競技をしているところ。

クロッケーとはイギリス発祥の競技で、日本のゲートボールの原型にもなったものだそう。

 

この「キッド」という愛称は、とても小柄で、愛嬌のある優男だったことから来ているようですね。

残された手紙の文章からは、良質な教育を受けていたことが伺われ、バーでピアノを弾いていたという証言も、多く残っているということ。

また、スペイン語を喋ることも出来たそうです。

なかなか、興味深い人物では、あります。