雑誌「歴史街道」の今月号に、「北条氏康の子供たち」という記事が掲載されています。

 

 

戦国時代、関東で活躍をした北条氏は、伊勢宗瑞(北条早雲)に始まり、氏綱、氏康、氏政、氏直と続き、いわゆる「五代百年」に渡って、関東に、支配地域を広げることになる。

これほど、長期に渡って、しかも、順調に、支配地域を広げ続けた戦国大名は、北条氏以外に、存在をしない。

戦国大名の中でも、希な存在です。

中でも、初代の北条早雲と、三代、北条氏康の二人は、戦国時代を代表する名将として、今でも、名高い。

二代目の北条氏綱もまた、再評価が進んでいるような感じでは、ありますが、四代目の北条氏政、そして、五代目の北条氏直の評価は、低い。

なぜかと言えば、関東に、巨大な勢力を築き上げた北条氏を、滅ぼしてしまったから。

 

北条氏政が、愚かな人物だったという逸話は、いくつか、あるようですが、これは、恐らく、江戸時代に創作されたもの。

果たして、本当に、北条氏政は、愚かな人物だったのか。

 

記事を読んでみると、北条氏政が、「凡将」という評価をされるようになったのは、江戸時代の半ば頃からだそうですね。

やはり、「家を滅ぼす原因となった」ということは、「家の存続」を、最も、重要な使命とする武士の価値観からは、受け入れられないものでしょう。

北条氏政の他にも、大内義隆、大友宗麟、龍造寺隆信など、その典型で、江戸時代に、その評価が、貶められることになる。

 

実は、北条氏政の生きていた当時から、江戸時代の始めまで、北条氏政は「稀代の名将」という評価だったそうです。

これは、意外でしたが、例えば、近畿地方を支配した三好長慶なども、江戸時代の始め頃には、「天下の名将」として名高かったそうですが、その後、忘れられた存在になってしまった。

 

北条氏政が、父、氏康から家督を継いだのは、永禄2年(1559)12月、21歳の時。

しかし、父、氏康は、北条氏政の後見として、政治、軍事を、引き続き、見ることに。

 

北条氏政が、家督を継いだ直後の永禄3年(1560)、越後国の上杉謙信が、大軍を率いて、小田原城を包囲。

恐らく、この時、北条軍の指揮を取ったのは、父、氏康でしょう。

ここから、関東は、関東管領となった上杉謙信の侵攻に、度々、晒されることになる。

 

北条氏政は、永禄4年(1561)から、譜代家臣への統制を担うようになったそうです。

永禄6年(1563)には、北条氏配下の国衆たちの統制も担う。

上杉謙信との戦いを続けながら、父、氏康は、次第に、氏政に、権限の委譲を行っていたようです。

 

永禄9年(1566)、父、氏康は、軍事に対する権限も、氏政に委譲し、これから、北条軍の指揮は、当主の氏政が担う。

同時に、外交もまた、氏政が担うようになり、ここで、北条氏政は、完全に、北条家の当主となったということでしょう。

しかし、父、氏康は、完全に、引退をした訳ではなく、領民統治、内政に専念をするようになったそう。

これは、氏康が、重篤な状態になり、政治が見られなくなる元亀2年(1571)まで続く。

 

室町時代、関東を支配するために設置されたのが「鎌倉公方」で、この鎌倉公方を支える役職が、「関東管領」です。

しかし、室町時代を通じて、関東では、戦乱が絶えなかった。

鎌倉公方は、「古河公方」と「堀越公方」の分裂。

関東管領は、「扇谷」「山内」の二つの家が、激しく、対立する。

 

北条氏の初代、伊勢宗瑞は、この堀越公方を滅ぼして、伊豆国を奪取。更に、相模国も占領する。

二代目の氏綱は、名字を「伊勢」から「北条」に変え、更に、関東への侵攻を強める。

そして、ついに、三代目、氏康は、古河公方、両上杉を「河越の戦い」で破り、関東での覇権を、確立する訳ですが、これは、越後国の上杉謙信を、関東に呼び込む結果となる。

更に、古河公方からは、「小弓公方」が分裂。房総の里見氏の攻勢も加わり、関東の混乱は続く訳で、北条氏政が、家督を継いだのは、このような時代。

 

北条氏政は、父、氏康から受け継いだ領土を、更に、拡大することになる。

氏政の弟、氏照、氏規、氏邦もまた、それぞれ、優秀な武将として知られている。

北条氏は、戦国大名の中で、父と子、兄弟、親族などの間で、権力争いが、全く、無かったという希有な存在。

これは、かなり、興味を引くところで、北条氏が、五代、百年に渡って、順調に、勢力拡大を続けることが出来たのは、この「内紛」というものが、全く、無かったことも、重要な一因でしょう。

 

さて、これは、何年か前の、同じ「歴史街道」の中の特集で書かれていたことですが、北条家は、領国支配、家臣団の支配を、「人」に頼るのではなく、「システム」として構築していたようです。

つまり、「人」の個性に頼る支配ではなく、「システム」として、北条家の制度が出来上がっていたため、誰が当主になっても、大きな混乱はなく、順調に、北条家は、成長をして行くことが出来たということ。

もちろん、この「システム」を、優秀な人が使えば、更に、有効に活用することが出来る訳で、それが、北条氏が、関東に覇権を築くことが出来た要因でしょう。

 

北条氏政が、「凡将」ではなかったことは、実績が証明をしているのでしょうが、個人的には、失点が、いくつかあるような気がします。

 

一つは、越後国で、上杉謙信の死後に起こった「御館の乱」で、弟である上杉景虎を、支援できなかったこと。

 

どうも、この時、北条氏政は、常陸国の佐竹氏と対陣中だったそうで、越後国に、援軍を送ることが出来なかったそう。

しかし、これは、何とか、上杉景虎を支援するべきではなかったのか、と、思うところ。

もし、上杉景虎が、上杉景勝を倒すことが出来ていれば、越後国は、北条氏政の影響下となる。

これは、大きなことではなかったか。

もちろん、支援が失敗に終わる可能性も高い訳で、氏政は、その辺を、考慮したのかも知れない。

 

一つは、やはり、豊臣秀吉と決裂し、滅ぼされてしまったこと。

 

北条氏政は、織田信長には、服従することを決めていた。

ここから推測をすると、豊臣秀吉に服従をしないという選択は、あり得ない。

実際、北条氏政は、豊臣秀吉に服従を決めていたようですが、上洛が、遅れてしまった。

また、交渉にも、行き違いがあったよう。

 

その中で、「名胡桃城奪取事件」が、起こってしまう。

 

この事件は、恐らく、北条氏政、氏直の想定外だったはず。

しかし、何とか、上手く、対処できなかったものか。

 

もっとも、豊臣秀吉に、何としても、北条氏を潰し、関東を取り上げたいという意思があったのだとすれば、北条氏政、氏直の意思には関係なく、北条氏は、滅ぼされる。

やはり、運命に逆らうことは、難しいということなのでしょうかね。