造山古墳の周辺には、小さな古墳が、いくつかあります。
造山古墳の「陪塚」のようです。
こちら、「第2号古墳」です。
一片が30メートルほどの方墳。竪穴式石室と思われる周辺から、円筒埴輪、朝顔型埴輪、盾持人埴輪など、108本が見つかっているそう。
道を歩いていると、クリが、たくさん、落ちていました。
こちら、クリの木。
こちら、第1号古墳(榊山古墳)です。何とも、よく分からないですよね。
第1号古墳を、裏側から。
直径35メートルの円墳に、小さな前方部がつく「帆立貝型古墳」です。
こちらは、前方部ということになる。
粘土で包まれた木棺から、馬形帯鈎が発見されたということ。
周辺からは、朝鮮半島の土器が、見つかっている。
第3号古墳は、直径30メートルほどの円墳と考えられていますが、削られて、原型が無く、よく分からないそう。
第4号古墳は、全長55メートルの前方後円墳で、周溝から、円筒形埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、鎧の埴輪が出土。
この二つの古墳は、見落としてしまいました。
そして、第5号古墳が「千足古墳」です。
この千足古墳は、以前、昔の姿に復元されたことで話題になり、多くの人が訪れている風景が、ローカルニュースで報道されていました。
一度、見に来ようと思っていたところ。
こちら、千足古墳、遠景。草が茂っているのが、残念。
こちら、千足古墳の説明版です。
復元当時の写真もありますね。
墳丘に登ると、埴輪が並んでいます。
こちらは、前方部。
こちらは、後円部の一段目に並ぶ、埴輪の列。
千足古墳の上から眺めた造山古墳。
こちら、墳丘、一段目にある説明版です。
こちら、千足古墳、第一石室についての説明版。
この第一石室は、見学が出来るようになっています。
こちら、第一石室への入口。
中に入ると、このような感じで、石室を、上から見下ろすことが出来ます。
墳丘の一番、上です。埴輪が、綺麗に、並んでいます。
こちら、墳丘上にある第二石室についての説明版。
この、色の違う場所が、第二石室のあった場所。
そして、左の、こちらが、第一石室のあった場所。
こちらは、ビジターセンターの中にあった、造山古墳と、陪塚の模型です。
古墳が作られた当時は、このような感じだったのですね。
さて、千足古墳について。
千足古墳は、古墳時代中期(5世紀前半)の前方後円墳。
前方部が小さいので、帆立貝形古墳とも呼ばれる。
2010年から2014年に発掘調査が行われ、墳長、約81メートル。後円部、約63メートル。後円部の高さ、7.4メートル以上。前方部の幅、26メートル。
古墳の形に沿って、溝があり、葺石は、無かったそうです。
後円部には、横穴式石室が、二つ。
第一石室には、熊本県から運ばれた石(天草砂岩)に、「直弧文」という文様が彫刻されている。
墓の玄室は、長さ、2.9メートル。幅、1.8メートル。高さ、2.5メートルで、安山岩を使って、壁がドーム状になるように積み上げられている。
その中に、石障と呼ばれる板石で、四角い空間が作られている。
玄門を出ると、石の壁で囲まれた空間(羨道部)があり、ここは、埋葬後、埋められる。
この石室は、九州北部、石障やドーム構造は、九州中部の影響。
安山岩は、香川県から運ばれているということ。
この千足古墳は、榊山古墳と共に、明治45年(1912)に、一度、発掘調査が行われているようですね。
しかし、この時の調査は、「乱屈」と書かれているように、かなり、乱暴なものだったのでしょう。
大正2年(1913)の調査では、第一石室が、水没していることが確認される。
昭和62年(1987)、写真撮影を最後に、石室内の水没状態が継続。
平成21年(2009)、石室の三次元計測で、「仕切り板」の損傷が発覚。
これをきっかけにして、千足古墳の復元、保存のための調査が始まったようです。
平成25年(2013)の調査で、第二石室が、発見される。
この時点で、天井部は崩壊していて、全体像は、明らかでないということ。
第一石室とは異なり、地元の花崗岩で、大部分が、作られているということ。
石室の位置から、当初から、二つの石室を作ることが決められていて、まず、第一石室、次いで、第二石室が作られたのだろうということ。
やはり、興味があるのは、造山古墳を始め、被葬者は、誰なのか、と、言うことですが、それは、分からない、と、言うことになるのでしょう。
なぜ、生前の個人を特定するものを、墓の中に残さなかったのでしょうね。