今日から、盆休み。と、言うことで、「造山古墳」に行ってみました。

造山古墳は、全長350メートルの前方後円墳で、日本で四番目の大きさの古墳。

しかし、行ってみて、少し、拍子抜けをしたところ。

墳丘の上に立ってみると、人の手が、多く入っていて、単なる、里山のよう。

また、草木が茂り、自由に歩くことが出来る場所も少なく、全体像も見えないので、何だか、古墳に乗っているという気持ちがしない。

 

こちら、「造山古墳ビジターセンター」です。建物の中には、造山古墳に関する資料が置かれていて、自由に、見学をすることができます。ここの駐車場に車を止め、造山古墳を目指します。

 

ビジターセンターの駐車場から見た、後円部。

 

こちらは、同じ場所から見た、前方部。

 

前方部の上に「荒神社」があります。

今日、ここに来たのは、この神社に置かれているという「石棺」を見るため。

 

これですね。神社の手水鉢代わりに使われている石棺。

この石棺は、九州、熊本産の「阿蘇溶結凝灰岩・馬門石」で出来ている。

熊本にある熊本鴨籠古墳の石棺と、よく似ているそうです。

つまり、吉備の勢力は、九州の勢力とも繋がりがあったということ。

 

手前、側面の加工。

 

こちら、奥側の加工。

 

そして、内部。奥側が、一段、高くなっているのが、分かります。

頭を乗せる部分でしょうか。

 

そして、この荒神社の社殿の裏手に、この石棺の蓋の一部が、放置されています。

 

説明版と、石室の蓋です。

 

赤い色が、少し、残っているのが分かります。

 

問題は、なぜ、石棺と、蓋の一部が、ここにあるのかということですよね。

江戸時代には、すでに、この場所にあったということのようです。

言い伝えとしては、近くにある「新庄車塚古墳」から運ばれて来たということのようですが、どうも、それは、不自然が気がしますよね。

大きくて、重い、石棺、そして、蓋を、なぜ、ここまで、持って来なければならないのか。

その必然性が、無いような気がする。

 

では、造山古墳から掘り出されたものなのかと言えば、それも、何とも、言えないですよね。

この造山古墳にあったのは、恐らく、竪穴式石室なのでしょうから、盗掘をされたとしても、重い石棺、蓋を、持ち上げて、石室から出さなければならない必然性が無い。

 

想像をしてみると、どこかに、放置、または、安置されていた石棺、蓋を見て、「これは、荒神社の手水鉢として、使えるのではないか」と、信心深い人が考え、協力者と共に、石棺と蓋を、この場所に持って来たということ。

または、これが、かつての有力者の石棺だということを理解して、その霊力に、期待をして、この神社の前に持って来た。

それが、いつの頃からか、手水鉢のように使われるようになったということ。

 

さて、後円部に向かいます。

 

途中、このように整備をされていて、公園のよう。

個人的には、興ざめ、と、言ったところ。

前方、後円部です。

 

 

墳丘上からの風景。

 

 

こちら、戦国時代の土塁の跡と思われます。

 

後円部から、前方部を見る、やはり、古墳の形が、よく分からないですよね。

残念。

 

墳丘を下りて、周囲を歩いてみると、家が並んでいたり、水路があったりで、墳丘に近づけないのが残念。

ちなみに、小さな牧場があり、馬が居ました。

 

 

 

造山古墳、遠景。

左が、後円部、右が、前方部です。

 

墳丘には、葺石が敷かれ、埴輪が並べられ、周濠もあったようです。

後円部の一部を、昔のように復元しようという計画もあるとか。

 

やはり、実際に、歩いてみて、自分が、古墳の上に居るということを実感し辛い環境だったのが、残念でした。

作山古墳の方が、その点では、行ってみて、楽しかった。