日本人と馬。
馬は、日本の社会の中で、移動手段、労働力として、欠かせないものの一つだった。
また、かつて、武士の学ぶ「武芸」と言えば、「馬に乗り、弓を射る」こと。
武士の象徴が「刀」となったのは、江戸時代以降に過ぎない。
さて、この日本人と馬との関わりは、いつからなのか。
この本から。
倭国と朝鮮半島で戦った高句麗。
この高句麗に関する遺跡を見てみると、「馬」を、とても重視していることが分かるようです。
高句麗は、騎馬民族の戦い方を、戦闘に取り入れていた。
ちなみに、「魏志倭人伝」によれば、3世紀頃の日本列島には、馬は居なかったと記されているそうです。
恐らく、朝鮮半島での高句麗との戦闘で、初めて、倭国は、馬による戦闘を経験したということになる。
現在、日本の固有の馬としては「北海道の北海道和種」「長崎県木曽地域の木曽馬」「愛媛県今治市の野間馬」「長崎県対馬市の対馬馬」「宮崎県宮崎市の御崎馬」「鹿児島県のトカラ馬」「沖縄県宮古島の宮古馬と、与那国島の与那国馬」の8種類が、存在する。
元々、日本でも、数千万年前から数百万年前の第三期中新世の地層から、馬の化石が出土している。これは、各足に指が三本ある原始的な特徴を持つ「三趾馬」と呼ばれる馬。
しかし、この馬は、やがて絶滅し、縄文時代、弥生時代には、日本には馬は居なかった。
その後、馬が日本に入って来たのは、4世紀末から5世紀の初めと考えられる。
この頃から、古墳の副葬品として馬具が、突如、増えて来る。
しかし、騎馬による戦闘技術が、何時、どのように日本で広まったのかは、確認できないということ。
5世紀頃、日本でも、本格的な騎馬文化が始まったようですが、これには、渡来人が、大きく関わっている。
恐らく、日本で騎馬文化が広まるきっかけになったのが、高句麗との戦争を経験したこと。
個人的な推測としては、高句麗の兵士による騎馬戦に苦しめられた倭国は、馬の導入を決め、その育成方法を学ぶため、渡来人を招聘したのでしょう。
そもそも、人類と馬との歴史は、約2万年前の旧石器時代のヨーロッパまで遡る。
当初は、貴重なタンパク質として、狩猟の対象だったよう。
その後、家畜化された馬は、ユーラシア大陸を、東に広がることになる。
東アジアの中で、最初に騎馬文化が根付いたのは中国で、紀元前14世紀頃。
朝鮮半島北部に、馬が根付いたのは、中国よりも、随分と遅れたと考えられる。
そして、日本に伝わるのは、更に、遅れた。
このように、馬の文化は、容易に伝播して行くものではなかったよう。
現在、「安定同位体分析」という手法で、馬の骨や歯を調べると、馬の生息地や、食べていたものが分かるということ。
つまり、馬の個体が、どこで、どのように育ったのかということが分かる。
これによると、畿内で育った馬の中に、一定数の東日本で育った馬が存在をすることが分かった。つまり、東日本で生まれ育った馬が、畿内に連れて来られ、飼育されていたということ。
また、一つの遺跡から発見された馬でも、エサのやり方は一様ではなく、それぞれの個体に合わせて、飼育が管理されていた可能性があるということ。
これらのことから、日本列島にまたがる馬の生産体制が、築かれようとしていたことが分かる。そして、それは、ヤマトの政権が管理をしていた可能性が大きい。
馬は、軍事だけではなく、農耕や荷役にも役に立つ。
また、遠隔地との通信も容易になり、日本の社会は、劇的に変化をしたものと考えられる。
以下、本を外れて、その後の馬の歴史。
平安時代頃、馬の産地として有名だったのは、東北地方。
そして、それ以前から、東北地方に存在をしていた「蝦夷」と呼ばれる人たちは、この馬を使った戦闘技術に長けていたと言われる。
恐らく、後の時代の武士たちが、武芸として「騎射」を第一としたのは、この蝦夷の戦い方を、参考にしたのではないでしょうか。
と、言うのが、個人的な推論。
かつて、日本の馬は、サラブレッドよりもかなり小さく「ポニー」のようなものだと言われ、戦闘には、あまり役に立つものではなかったように言われていましたが、それは、間違いです。
確かに、サラブレッドよりも小型ですが、十分に、戦闘力を発揮できるもの。
戦国時代、武田氏の騎馬軍団は有名ですが、これも、かつては、そのようなものは存在しなかったというのが一般的でしたが、個人的には、それに類似するものは、存在したのではないかと思うところ。
馬に乗った一団が、敵陣を急襲し、突破する。
鉄砲が、一般的な武器として広まるまでは、かなり、有効な戦闘手段だったでしょう。