さて、「倭国大乱」についての、続き。

この本から。

 

 

さて、今回、「倭国大乱」を、少し、大きな視点で見てみます。

 

紀元184年、中国では「黄巾の乱」が、勃発します。

これは、後漢帝国の末期、こちらも、気候変動による災害、飢饉が続く中で、「太平道」という宗教の信者たちが、一斉に、放棄し、全国に広まったもの。

ここから、中国は、戦乱の時代に、突入します。

日本でも有名な「三国志」の時代。

 

そして、この戦乱、災害、飢餓を逃れようと、恐らく、多くの人たちが、難民として、日本を目指したものと思われます。

実は、中国には、東方の海上に、仙人が住む、不老不死の理想郷「蓬莱」があると信じられていました。

戦乱、飢餓に苦しむ中国の人たちが、東方の海上、つまり、日本を目指したとしても、不思議ではない。

 

そして、この、中国からの難民は、弥生時代の日本の社会に、混乱を起したものと思われます。

つまり、「倭国大乱」に、拍車を掛けることになる。

彼らは、中国で使われていた「高度な武器」、「戦闘技術」を、日本に持ち込んだと考えられる。

日本では、「石器時代」から、「青銅器」の時代を飛び越えて、急速に「鉄器」の時代に進んだことが確認できるそうです。

これは、中国からの難民が、「鉄器」を大量に持ち込んだためと考えられる。

つまり、「鉄の武器」です。

 

さて、鳥取県青谷町に「青谷上寺地遺跡」というものがあるそうです。

この「青谷上寺地遺跡」は、弥生時代の終わりから、古墳時代の始めにかけて栄えた集落で、日本海に通じる港があり、交易の拠点だったと考えられる。

この遺跡は、遺跡周辺が低湿地で、外気から遮断されていたため、出土物の保存状態が良く、「地下の弥生博物館」と呼ばれているそう。

 

この青帯上寺地遺跡では、2000年の発掘調査で、約5300点、110体分の人骨が発見されたそうです。

日本は、酸性土壌で、人骨が残りづらく、これだけの規模で、人骨が発見されたのは、異例のこと。

この人骨を、詳しく調査することで、様々なことが分かったようです。

また、2023年の調査でも、350点、10体の人骨が、発見されている。

 

戦闘によって殺害されたと思われる人骨も、その中に、多く含まれている。

また、発見された頭蓋骨の多くに、焼かれた形跡があったということ。

鋭利な武器によって傷つけられたと思われる人骨は、約110点で、それらは、ほぼ、即死だったと思われるということ。

 

この青谷上寺地遺跡の人骨、33点の、DNAゲノムを分析、解析したところ、意外なことが分かったそうです。

この33点の人骨は、32体の個体であることが分かり、このうち、母系の血縁がある可能性がある個体は、3体だけ。

つまり、ほとんどの個体に、母系の血縁関係が無い。

 

一般的に、人の往来、流入が少ない状態が、長く続く集落では、同族の婚姻が増えることで、母系の血縁が多くなるということ。

つまり、青谷上寺地遺跡の集落は、人の移動、出入りの多い、都市型の集落だった可能性が高い。

更に、DNAの分析の結果、31個体が、渡来系(中国、朝鮮半島から来た人たち)で、1個体が、縄文系(元々、日本に居た人)だったことが分かる。

これは、何を、意味しているのか。

 

これは、互いに、ほとんど血縁関係を持たない、渡来系の人たちが、一斉に、まとめて殺害されたことを示している。

一説によれば、「奴隷の人々が、殺害され、集団で葬られたのではないか」ということ。

 

当時の日本の社会は、「魏志倭人伝」によれば、支配者層である「大人」、一般層である「下戸」、奴隷層である「生口」「奴婢」によって構成をされていた。

青谷上寺地遺跡では、交流の拠点らしく、多くの輸入品、輸出品も出土している。

恐らく、これら、交易品の中には、「奴隷」も居たはず。

この遺跡から発掘された多くの人骨には、栄養状態が悪かったもの、病気を持つものも、多く確認されているそうで、それもまた、彼らが、奴隷であったことを裏付けているのでしょう。

 

ここからは、個人的な推測です。

 

中国で、後漢帝国の弱体化や、戦乱、気候変動による飢餓、災害の混乱で、多くの人が、理想郷である「蓬莱」、つまり、日本を目指した。

しかし、難民というのは、今の時代でも、その土地で、社会的弱者となる。

一部は、恐らく、「兵士」として、または、特別な技術を持つ者として歓迎をされたのでしょうが、多くは「奴隷」となり、拘束され、酷使され、売買されたのではないでしょうか。

 

さて、卑弥呼の擁立と、邪馬台国を中心として連合政権のようなものが出来たことで「倭国大乱」は、一応の収束を見たようですが、戦争が終わった訳ではありません。

それは、また、この次に。